Muranaga's View

読書、美術鑑賞、ときにビジネスの日々

恩田陸『小説以外』

作家・小説家のエッセイを読むのは、その人がふだんどういう生活をして何を思っているのかが垣間見えて楽しい。

『小説以外』はその名の通り、恩田陸の小説「以外」、ほぼ年代順に並べられたエッセイ集である。実は、恩田陸の小説はほとんど読んでいなくて『夜のピクニック』を読んだくらい。『六番目の小夜子』のような学園ホラーものの印象があって、僕は「怖い話」をあまり読まないからだ。

『小説以外』 『夜のピクニック』

恩田陸は本が大好きで、『小説以外』もその読書生活が中心になっている。若いころから本を読みながら話を膨らませていくのが好きだったようで、おそらくその延長線上で作家になっているのだろう。作家になってからも、一読者という視線を忘れずに、いろいろな本がエッセイや解説という形で紹介される。

世の中にミステリー小説などはたくさんあり過ぎて何を読んでよいかわからないし、せっかく時間をかけて読むのだから面白くないと腹が立つ。そんな時、彼女のような目の肥えた読書家がお薦めしてくれるのは大変ありがたい。たとえば川端裕人という作家を初めて知ったが、『夏のロケット』や『リスクテイカー』など読んでみたいと思う。また「時間を忘れさせてくれる文庫ベスト5」で紹介されていた『戒厳令の夜』『ドナウの旅人』『田中角栄研究』『ガン回廊の朝』『ファイアスターター』は読んでみたいし、僕自身読み始めてやめられなかったものも含まれている。

読んでいて「なるほど」と思ったところ、共感したところをいくつか引用しておく:

本格推理小説作家への道(P.36)


 私が本格推理小説が好きなのは、それを読む時の贅沢な気分が好きだからだ。本格ミステリは、小説の中で一番芝居に近いのである。ほほほ、今日の玉三郎はどうざましょうねえ、という感覚である。うっとりゴージャスな気分にさせてもらえば十分なのだ。別に幕が降りたあとでナイフの刺さった俳優がむくりと起き上ったからといって、「嘘じゃないか」なんて言おうとは思わない。しかし、演技力がないのは困るし、照明のタイミングを外したり、天井からバケツが落ちてくるのも困る。こんにち本格ミステリが馬鹿にされているのは、血糊の付いたナイフを抜いている役者に「生きているじゃないか」と青筋立てる観客と、バケツを落としておきながら「俺の芝居を理解していない」と言う演出家がいるためで、どうにも無念である。

残滓と予感の世代(P.150)


 私は地方の県庁所在地の古い公立高校で、新聞部に所属していた。歴代変人揃いの編集長と部員を輩出することで有名だったこの部では、狭い部室で日々活発なディスカッションが行われていた。要するに、もっともらしそうなこむずかしい論理と、背伸びして取り入れたなけなしの教養を盾に、相手を喋り倒すという、青春の恥ずかしくもいじらしい一場面である。
 私は論理的思考能力が著しく欠如しているので、いつもぽかんとして彼等の話を聞いていた。彼等の「相手を喋り倒す」ということにかける執念に感心すると同時に、「男子の話というものは、常に細部へと向かうものなんだなあ」と感じていたものだ。女の子の話は、どんな細かい内容を話していても、結局は「自分の感じていること」がメインであり、最後までそこから踏み出すことはない。しかし、男の子の話は、ものごとのディテールを語っているうちに、そのディテールに捕らわれ、狭いところに入り込んでいってしまうように見えるのだ。

これだからイギリス人は…(P.262)


 「これだからイギリス人」に共通しているのは、冷徹な観察眼と、些かの稚気(自虐的ユーモアと言い換えてもいい)、教養と合理性である。そこにちょっと「風変わり」というスパイスを効かせれば彼らになる。まあ、平たく言えば「意地悪できつーいユーモア」をぷんぷんさせている、ということになるだろうか。これがアメリカ人だと、笑ったあとでふと真面目になってしまい、そのまままっすぐ精神分析医のところに行ってしまうのだが、イギリス人だと、お茶かギネスを飲み、ゴシップにして己を笑いのめすことができるのだ。

ファンタジーの正体(P.270)


 ファンタジーというのは、戦争の話である。
 最近、特にその感を強くする。「戦争」という言葉が短絡的であるならば、「戦う話」、もっと正確に言えば、「秩序を取り戻す話」とでも言い換えるべきであろうか。