Muranaga's View

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計算機科学と生命科学が出合うところ --- 『DNAロボット―生命のしかけで創る分子機械』

ちょっとお値段の張る岩波科学ライブラリーシリーズから、萩谷昌己先生の本ということで思わず手に取ってしまったのが、『DNAロボット―生命のしかけで創る分子機械』である。

DNAロボット―生命のしかけで創る分子機械 (岩波科学ライブラリー)

萩谷先生は理論面(プログラムの形式論理)でも実践面(言語処理系やウィンドウシステムの実装)でも優れた計算機科学者だと思っている。個人的なお付き合いはないが、湯浅太一先生と一緒に実装された Kyoto Common Lisp の処理系には大変お世話になった。萩谷先生が書かれた『ソフトウェア考現学』、あるいは今は休刊してしまった雑誌 「bit」 に寄せられる文章は切れがあって好きだった。第五世代コンピュータ全盛、人工知能全盛の20年ほど前に、次のようなことを書かれていたように思う。「人間の情報処理を記号処理で真似る人工知能(Artificial Intelligence、AI)のやり方では、人間の知の本質に迫ることはできない。人間の知を調べるなら、脳に電極を突っ込んでデータを取るくらいのアプローチが必要。」卓見である。

その萩谷先生が分子生物学、DNA ナノテクノロジーの分野の研究をされていたとは。驚くとともに、これこそ計算機科学と生命科学との出合いだと感じる。萩谷先生の興味は、計算機科学の範囲にとどまっていない。この本では DNA 分子を使って新たな構造を作ったり、さらにはそれが動的に動く「ロボット」を作ったりする最前線の DNA ナノテクノロジーの世界が、DNA とは何かという入門から始まって、丁寧に説明されている。なるほど、計算機科学による事前の構造設計が有用な分野である。ある意味、DNA 分子の持つ組み合わせの制約を加味したパズルを解いているようなものかもしれない。しかも「分子部品のライブラリ化」は、構造化プログラミングと同じような考えである。DNA 分子を使って、人工的に「細胞」を合成するアプローチから、分子生物学に新たな知見が得られると思われる。研究室に DNA 工学に必要な設備を一通り揃えられたということだから、計算機科学としては一風変わった研究室になっているのだろう。

萩谷先生のサイトをスクロールして見て行くと、その一番最後に昔書かれたエッセイがいくつか残っている。たとえば「Lisp の思い出」、米国の Lisp 大家たちの印象を綴った「続・Lisp の思い出」「AI について」、bit の記事「ソフトウェア原論序説」など。今読んでも楽しい。僕自身が Lisp や C でいろいろなプログラムを書いていた頃が懐かしく思い出される。