日本書紀成立1300年の特別展「出雲と大和」をトーハクに観に行く。
日本書紀の冒頭にある国譲りの神話では、国津神が天津神に国を譲り、国津神であるオオクニヌシは出雲へ鎮座する。神々を司る「幽」を祀る出雲と、現実を司る「顕」を祀る大和。それぞれの世界を見ていく展覧会である。入り口の横で放映されている10分足らずの概要紹介のビデオを見てから会場に入るのが、オススメである。また事前に予習するなら、『時空旅人』の「出雲と大和」特集号を勧めたい。この展覧会に関する解説に加えて、出雲や大和の遺跡・神社など現地を巡る旅について、楽しく読み進めることができる。
まずは出雲。48mを超える高さを誇ったという出雲大社を支えていた「心御柱」「宇豆柱」が、展覧会の最初を飾る。直径約 1.3m の大木を 3本 1組に束ねた柱を作り、それに支えられる形で作られた出雲大社。鎌倉時代当時のその大きさが偲ばれる。
圧巻なのは、荒神谷遺跡から見つかった358本の銅剣。加茂岩倉遺跡から見つかった39の銅鐸。銅鐸埋納状況を復元した模型も展示されている。弥生時代、出雲を支配していたのは、どんな人たちだったのだろう。
弥生時代後期には、青銅器祭祀から四隅突出型墳丘墓のような大きな墓を舞台とした祭祀へと移り変わっていく。この特徴的な形状の墳丘は、出雲を中心に日本海側沿岸に分布し、大和とは異なる祭祀文化が形成されていたことを示している。国譲り神話は何を語っているのだろう。
一方、古代日本の王権を担った大和。こちらでは纏向(まきむく)遺跡のシンボル的な箸墓(はしはか)古墳から、前方後円墳が政治権力の象徴となり、王儀の場となる。4世紀中ごろからは、同じ形の前方後円墳とその副葬品が共通規格のように、大阪平野の百舌鳥や古市、奈良盆地の各地に展開されていく。箸墓古墳は邪馬台国の卑弥呼の墓なのだろうか。そしてそもそも邪馬台国は大和の地に存在したのだろうか。
展覧会では、黒塚古墳から出土した画文帯神獣鏡と三角縁神獣鏡すべてが展示されている。ヤマト王権は大陸との交流で技術を習得し、得られた品や模倣品を豪族に与えることで基盤を強めていったが、その代表が三角縁神獣鏡とのこと。
最古の神宮の一つ、石上(いそのかみ)神宮に祭器として伝わる七支刀(しちしとう)も展示されている。『日本書紀』の神功皇后の時に、百済から献上された「七枝刀」(ななつさやのたち)の実物と考えられている。当時のヤマト王権と大陸との交流を示す品である。
実に見応えのある展覧会だった。大量の銅鐸、銅剣、神獣鏡を眺めながら、「出雲や大和を支配していたのはどんな人たちだったのだろう」と、古代の日本に思いを馳せる貴重な時間を過ごすことができた。
さてトーハク東洋館では特別展「人、神、自然」も開催されている。カタール国の王族が収集したザ・アール・サーニ・コレクションの中から、世界各地の古代文化が生み出した工芸品を展示したものである。