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「絵のある陶磁器 仁清・乾山・永樂と東洋磁器」展(三井記念美術館)

雨の日の美術館巡り。「スコットランド国立美術館 THE GREATS 美の巨匠たち」展を観たあとは都美のレストラン(ここも上野精養軒の経営である)でランチ。そして三井記念美術館へ向かう。リニューアルオープン第1弾の展覧会「絵のある陶磁器 仁清・乾山・永樂と東洋磁器」を見る。

展覧会のサイトではその趣旨を下記の通り説明している:

江戸時代の京都では、仁清や乾山の色絵陶器、染付や金襴手のような中国陶磁を写した永樂家の陶磁器など、絵のある陶磁器が多く焼かれ、それらが今日の京焼へとつながっています。

「江戸店持京商人(えどだなもちきょうあきんど)」として、京都に居住した豪商三井家は、茶の湯を通じて仁清や乾山につながる永樂家の陶磁器を好み、長年にわたり親交がありました。今回の展覧会は館蔵品のなかから、仁清・乾山をはじめ、写しの世界ともいえる永樂保全・和全の陶磁器を中心に、そのもとになった中国陶磁もあわせて展観いたします。

そして京焼の野々村仁清尾形乾山、永樂保全・和全について、次のように紹介している:

日本の陶磁器の歴史の中で、器体に釉薬や絵具で絵が描かれるのは、桃山時代に美濃で焼かれた志野や織部からはじまります。いずれも茶の湯の陶器として焼かれたもので、志野では簡略な草花や垣根、屋形や橋などの文様化されたものが多く、織部では様々な幾何学文様や染織品などから切り取ったような文様が描かれ、織部好みと呼ばれて茶人の間で大流行しました。

その流れの中で京焼色絵陶器の完成者とも言われる野々村仁清が、大名茶人や公家の好みを汲み取った雅な茶陶を焼きました。繊細優美な器形とともに、色絵と呼ばれる色彩豊かな上絵具による文様が描かれ、その後の京焼の方向性が示されたといえます。

尾形光琳の弟である尾形乾山(1663~1743)は、仁清に陶法を学び、京都の鳴滝に窯を築いて乾山焼を焼きました。光琳が絵を描いた角皿や、乾山自身が山水や詩画を描いた茶碗や食器など、文人的な焼き物へと広がりを見せます。

その後、幕末には西村(永樂)了全(1770~1841)・保全(1795~1854)が出て、仁清写しや中国陶磁の写しを焼き、茶の湯界の需要に応えますが、その背景には三井家との親密な交流がありました。その関係は幕末から明治の永樂和全(1823~96)、さらに昭和の永樂即全まで続いています。

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