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2025年初の展覧会は「儒教のかたち こころの鑑 - 日本美術に見る儒教」(サントリー美術館)

インフルエンザに感染したり、試験勉強をしたり、さらには老父の介護体制を整えたりと、なかなか忙しく、1月半ばも過ぎてから 2025年初の展覧会訪問となった。サントリー美術館で開催されている「儒教のかたち こころの鑑 - 日本美術に見る儒教」である。

www.suntory.co.jp

展覧会の概要を Web サイトから引用する:

儒教は、紀元前6世紀の中国で孔子(前552/551~前479)が唱えた教説と、その後継者たちの解釈を指す思想です。孔子が唱えた思想とは、五常(仁・義・礼・智・信)による道徳観を修得・実践して聖人に近づくことが目標であり、徳をもって世を治める人間像を理想としています。このような思想は、仏教よりも早く4世紀には日本へ伝来したといわれ、古代の宮廷で、為政者のあるべき姿を学ぶための学問として享受されました。

中世になると、宋から新たに朱子学南宋朱熹が確立させた新しい儒教思想)が日本へ伝わり、禅僧たちがそれを熱心に学んだことから、儒教禅宗寺院でも重要視されました。そして近世以降、文治政治を旨とする江戸幕府は、儒教を積極的に奨励し、その拠点として湯島聖堂を整備します。江戸時代を通じ日本各地で、身分を問わず武家から民衆、子どもに至るまで、その教育に儒教が採用され、広く浸透していったのです。

例えば、理想の君主像を表し為政者の空間を飾った、大画面の「帝鑑図」や「二十四孝図」が制作された一方で、庶民が手にした浮世絵や身の回りの工芸品の文様にも同じ思想が息づいています。それらの作品には、当時の人々が求めた心の理想、すなわち鑑(かがみ)となる思想が示されており、現代の私たちにとっても新鮮な気づきをもたらしてくれます。本展が、『論語』にある「温故知新」(ふるきをたづねて新しきを知る)のように、日本美術の名品に宿る豊かなメッセージに思いを馳せる機会となれば幸いです。

以下、Web サイトの展示構成から、この展覧会のみどころを僕なりにピックアップしてみた:

展覧会の最初に「勧戒画」が展示されている。為政者のあるべき姿、戒めるべき姿を画題として描いたのが「勧戒画」であり、「善を勧め悪を戒める」意味を持って制作された。

勧戒画の代表的な例が、内裏で最も格式の高い紫宸殿において天皇玉座(高御座)の背後を飾る「賢聖障子(けんじょうのそうじ)」(32人の中国古代の賢臣の姿を描く)、そして親孝行などの優れた行いをした24人の中国古代の人物を描く画題である「二十四孝図」である。中国・明の時代に編纂された『帝鑑図説』をもとにした画題である「帝鑑図」も、中国歴代皇帝の鑑とすべき善行と戒めとすべき悪行を描く勧戒画である。

13世紀には為政者のブレーンとなった禅僧が影響力を持ったらしい。禅の思想だけでなく、宋学(宋代に生まれた新潮流の儒学)の知識全般に高い関心を持ち、その中には、朱子学や「儒教、仏教、道教の根源は同じ」とする三教一致思想なども含まれていた。雪村周継(せっそんしゅうけい)の《孔子観欹器図》は、その一つ。水を満たした器はひっくり返って水をこぼしてしまう。満杯ではなく、ほどほどに満たされるのがよいという教えである。

そして江戸時代には、林羅山のような儒学者が重用され、武士から民衆に至るまで「朱子学」を学ぶことが奨励された。鳳凰は、儒教における優れた君主の出現を意味する象徴として、狩野探幽をはじめとする狩野派の絵師たちによって繰り返し描かれた。

寛永9年(1632)に林羅山が上野・忍岡の私邸内に孔子廟を作り、徳川義直がそれを支援する。元禄3年(1690)になって、孔子廟は第五代将軍・徳川綱吉によって湯島に移され、翌年、現在の湯島聖堂が建立された。

江戸時代の後半になると、儒教が民衆に浸透したことで、鈴木春信(1725?~1770)が五常をテーマとして制作した錦絵や、歌川国芳(1797~1861)による《二十四孝童子鑑》など、多くの人々が手に取る浮世絵の題材として儒教思想が反映されていった。

孔子観欹器図》などを見ると、こういった教訓のあるエピソードを、中高時代に漢文の授業で学んだことを懐かしく思い出す。「子曰く」で始まるお馴染みのフレーズ。当時は結構『論語』を学び、その教えも非常にためになるものだったものだ。すっかり忘れてしまっていが、またこうやって思い出すことができるのは、不思議な気分である。40年以上の時を経て、また新たな気持ちで『論語』を読んでみるのも悪くないかもしれない。まさに「温故知新」である。

展覧会の後は、お馴染みの HARBS でランチ。