2月11日、23日と近くの公園の梅林まで散歩。11日はまだ一部の梅しか咲いていなかったが、23日にはしだれ梅などが見ごろになっていた。






公園の近くには、大倉山記念館がある。映画のロケ地などにも使われる建物である。






2008年の年末から12年間愛用していた EPSON のプリンター EP-901A が、インクトナーを認識しなくなった。何度かトラブルに見舞われたものの、一度修理に出しただけで活躍してきたプリンターだが、もうそろそろ寿命かもしれない。Mac OS のドライバーが対応していない古い機種でもあり、これを機にアップデートすることにした。
EP-901A とほぼ同等の機能を持つ EPSON の最新版 EP-883AR を購入、12年前と比べて、2/3 くらいの大きさ・体積になっていた。気分転換の意味もあって、黒ではなくワインレッドを選択。サポートサイトには、取扱説明書をはじめ、動画でのマニュアルが充実している。
エプソン プリンター インクジェット複合機 カラリオ EP-883AR レッド(赤) 中
実のところ、プリンター更新に先立ち、Wi-Fi のアクセスポイントもアップデートしていた。こちらはもっと古く、今の住まいに引っ越して以来、16年近く使っていた。当時は Wi-Fi なんて言葉もなく、無線LAN と呼んでいた。2.4GHz / 11Mbps の時代である。
新しい Wi-Fi は I-Oデータ製(取扱説明書、設定動画など)。 Wi-Fi 6 対応ということで、2.4GHz / 5GHz 両方の SSID を持っている。当時と違って、有線LAN のポートにつなぐと自動的にアクセスポイントとして機能する。そしてスマートフォンからその状態を確認できるし、設定変更をすることもできる。リモートワークのため家族でネットアクセスしているため時間帯にもよるが、有線で 80Mbps 出ている状況において、Wi-Fi(iPhone の場合)では最速で 40Mbps くらいは出るだろうか。しかし遅い時は 10Mbps くらいにまで落ちる。
新しい EPSON のプリンターを、新しい Wi-Fi に接続。そして Epson.sn というサイトの指示通りに従っていくと、パソコンから使えるようになる。
Wi-Fi やプリンタの設定は、トラブルが多く煩わしいものだったが、10年以上も経つと、簡単に設定できる世の中になっていた。プリンターも Wi-Fi も、新たに設定し直したりトラブル対応したりするのが面倒くさくて、新規購入をずっとためらっていたのだが、プリンターの故障を機に両方ともアップデートしたことになる。今のところ快適である。
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横浜美術館は来月3月1日より、大規模改修工事のため 2年超の長期休館に入る。その前の最後の展覧会となる「トライアローグ:横浜美術館・愛知県美術館・富山県美術館 20世紀西洋美術コレクション」展に行ってきた。そのタイトルの通り、横浜美術館・愛知県美術館・富山県美術館という3つの公立美術館のコレクションを組み合わせて、20世紀の西洋美術の歴史を振り返る展覧会である。
横浜美術館はこの展覧会に関して、さまざまな映像を提供している。次の映像は、この展覧会を 4分で一巡するものである:
横浜美術館「トライアローグ:横浜美術館・愛知県美術館・富山県美術館 20世紀西洋美術コレクション」
展覧会の最初を飾るのはピカソ。《青い肩かけの女》、《肘かけ椅子の女》、《肘かけ椅子で眠る女》、《座る女》が並べられている。「青の時代」と呼ばれた時、キュビズムに移行、シュールレアリスムを取り入れた時と、その画風の変遷をすぐに見てとることができる。
スマホでアクセスできる解説コンテンツが用意されており、展覧会を回りながら、該当する作品の前で見てみるのも楽しい。またパウル・クレーが使った「油彩転写」という画法の解説映像なども用意されており、作品の横にある QR コードからアクセスできるようになっている。音声はなくすべて字幕になっており、絵を鑑賞しながら、その技法を知ることができるように工夫されている。
シュールレアリスムという点では、昔、ルネ・マグリットの絵が好きだった。不思議で幻想的な空間を示した《王様の美術館》(横浜美術館蔵)が展示されている。
現代美術では、アンディ・ウォホールの《マリリン》(富山県美術館蔵)が目を引く。マリリン・モンローの顔のシルクスクリーンによる複製。さまざまな色による対照。大量消費の文化の中で、美術作品も唯一無二ではないし、必ずしも美しいものではない。そういうことを示した作品なのかもしれない。
僕は現代美術をどう鑑賞していいのか、どう文章に表現したものか、よくわからないので、この展覧会のみどころや魅力について紹介した記事を参考にされるとよいと思う。
公式図録には、絵と共に詳しい解説の文章が添えられている。公立美術館の所蔵コレクションの力を感じた展覧会であった。
「トライアローグ」展と同時に、横浜美術館のコレクション展「ヨコハマ・ポリフォニー:1910年代から60年代の横浜と美術」も開催されている。地元・横浜に縁のあるアーティストたちの作品が集められており、これまた珠玉のコレクションである。
岸田劉生や川村信雄の洋画、長谷川潔の銅版画、川瀬巴水の弟子である石渡江逸の新版画、イサム・ノグチの彫刻と岡田謙三との交流…。長期休館まで2週間。その前に、横浜美術館のコレクションを目に焼き付けるよい機会であった。
ちょうど日の出の時刻に川沿いをジョギングしていましたが、その足を止めて、撮影しました。
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通勤用に使っているのはバッグはリュックタイプ。以前は TUMI のショルダーバッグを愛用していたが、左右のバランスを保つためにエースのビジネス・リュックに替えた。軽量で腰への負担も少ない。ビジネス・リュックを使い始めて、5年が経ち、ファスナーが壊れたり、ファスナーの布に穴が開いたりしてきたので、新調することにした。
といっても、全く同じ形状のビジネス・リュックで、年式が違うだけ。実は1年ほど前、デパートで型落ち品として安く売られていたのを見つけて、買っておいたものである。
左の2015年のモデルから、右の年のモデルへ、新調したことになる。ファスナーなどが変わっているだけで、全く同じ形のモデルである。このモデルは、今はもう販売されていない模様。買っておいてよかった。
軽くて薄い(42cm x 29cm x 11cm)。13インチの PC やタブレットが収納可能。A4 ファイルが収納可能。3つの気室に分かれていて、一番下には折り畳みの傘やモバイル電源を入れる。一番外側のポケットは撥水加工されており、雨に降られても、電源やイヤフォンなどのケーブルに影響がない。出張用のキャリーバッグにセットアップして、一緒に引っ張って運ぶこともできる。
そして色がグリーンであることも気に入っているポイントの一つである。
実際に詰め替えてみると、たくさんある収納ポケットに、不要なものが残っていた。出張時の万一に備えた風邪薬・痛み止め、花粉症の目薬、のど飴。マスクも5枚ほど入っていた。ちょっとした断捨離をしてすっきり。また新たな気持ちで、出社できる。
…といっても、ほとんどリモートワークの状態なんですけど。
「没後70年 吉田博展」が、東京都美術館で1月26日より開催されている。吉田博(1876 - 1950)は、洋画家としての卓越した技術と、日本の伝統的な版画技法を統合することにより、独創的な木版画制作を確立した画家である。吉田博の絵は海外での評価が高く、ダイアナ妃やフロイトがその版画を所有していたことでも知られている。この展覧会では、吉田博の後半生における250数点もの木版画の中から、200点弱を一挙公開して、その魅力を追求する。
東京都美術館の広いフロアを使って、これだけ多くの吉田博の木版画をじっくり観ることができるのは、至福である。油彩画・水彩画に見られる微妙なグラデーションやぼかしを、緻密に計算されて彫られた版木を組み合わせ、平均で 30数回、最多で 96回という摺りを重ねることで、木版画上で実現していく。できあがった作品は「これが版画なのか?」と思うような写実的な絵となっている。
大自然を愛した登山家でもあり、何日も山に露営して、その変化の一瞬の美しさをとらえた風景画が多い。そして日本だけではなく、米国・欧州・アジア、世界各国を旅した画家でもある。変化する山の空気、湿気を帯びた日本の空気、あるいは乾いた砂漠の空気…。その場所の空気までもが感じられるようだ。
日本画家であった川瀬巴水の版画は、よりコントラストを強調した色彩であり、また風景の中に人物を登場させるなど、抒情性が感じられるが、それとは違った魅力を、吉田博の版画は放っている。川瀬巴水が伝統的な浮世絵の延長線上で版画を制作していったのに対し、吉田博は西洋美術の技法を日本の木版画に取り入れ、その表現を磨いていったと考えられる。
吉田博が木版画制作を手掛けるようになったきっかけは、「新版画運動」の渡邊庄三郎である。伊東深水・川瀬巴水・笠松紫浪といった日本画家による絵で新しい版画出版を行っていた渡邊庄三郎にとって、洋画家の吉田博を採用することは念願であった。渡邊版の版画を8点作った後、吉田博は独自の監修で木版画を作り始める。そのきっかけになったのは、関東大震災で被災した画家仲間(太平洋画会)救済のためにその作品800点を販売すべく渡米した時に、渡邊版木版画が好評であったこと、さらには幕末の粗悪な浮世絵でさえ高値で取引されているのを見たことであるらしい。海外の人に見せても恥ずかしくない、日本人ならではの木版画を自分の手で作ることを決意して帰国したと考えられている。
渡邊版では下絵師に過ぎないという不満もあっただろう、吉田博は「絵師こそが創作者。彫師・摺師はそこに従属する」という思いのもとに、自らが中心となって版画制作を行うシステムを作り上げていく。彫師・摺師を厳しく指導するためには、自らもできないといけないと、彫りや摺りを一から学び、職人顔負けのレベルになったと言う。信頼のおける彫師・摺師を専ら起用、つきっきりで厳しく注文を出し、妥協を許さなかった。時に職人には任せておけず、自らが彫る場合もあった。齢 49歳。洋画家であった吉田博は、以降、木版画制作に集中していく。
吉田博は同じ版木で、異なる摺りにより、刻一刻と変わっていく光を表現している。朝、午前、午後、霧、夕、夜を摺り分けた《帆船》の6連作はその代表と言える(写真はマスクケース。チケットホルダーにもなる)。
また 70cm もの大きな作品を作ったのも吉田博である。紙が大きくなればなるほど、水分を含んだ紙の伸縮が大きくなり、「見当」と呼ばれる摺りを合わせる目印が合わなくなるはずだが、職人との二人三脚で、少しもズレのない大作を生み出している。
木版画技法を追求し続けた吉田博は、独創的なイノベーターであり、海外でも評価が高い。その原点は 1899年、23歳の時に決死の覚悟で渡米したことにある。1893年にフランス留学から帰国し、東京美術学校の教授となった黒田清輝とその一派に対して、「旧派」と呼ばれるようになった吉田博ら洋画家たちに、国費留学のチャンスはない。吉田博は片道分の旅費を借り受け、中川八郎と一緒に、自費での渡米を決行する。日本で吉田博の水彩画を買ってくれたチャールズ・フリーアの紹介状が唯一の頼りであった。フリーアは旅行中で会えなかったが、訪れたデトロイト美術館でグリフィス館長に水彩画を見せたところ、その素晴らしさに驚いた館長が二人の展覧会を開いてくれた。そこで水彩画が売れて、吉田博は現在の貨幣価値で数千万円に相当する $1,234 を手にする。さらには紹介してもらったボストン美術館で $2,785 を売り上げる。渡米でわずか 2ヶ月での「アメリカン・ドリーム」の実現、「デトロイトの奇跡」とも言えるできごとであった。
その後、吉田博は何度か渡米・渡欧して、インターナショナルな活躍を見せる。そして 1925年の渡米をきっかけに、木版画制作に打ち込んでいくことになる。今回の展覧会は、質・量ともに、吉田博の木版画の魅力を十二分に堪能することができる。
200点もの作品を収めた公式図録は、must-buy である。大きめの図版で、じっくり展覧会の作品を振り返ることができる。孫の吉田司氏が、博の生涯、そして数々の興味深いエピソードについて記している。この展覧会の図録やグッズは、毎日新聞社のサイトでも購入することができる。
2017年に「生誕140年 吉田博展」が開催された時に購入した、以下の本も紹介しておく。
『吉田博作品集』は、吉田博の後半生の木版画だけでなく、前半生の洋画家としての油彩・水彩画も詳しく紹介している。アメリカでの活躍、因縁の黒田清輝(白馬会)への対抗、妻・吉田ふじをへの厳しい指導、自らが指揮する木版画制作のシステム確立についてのエピソードが興味深い。中でも、終戦直後、吉田博の家は進駐軍に接収されかけたが、博自らが抗議して撤回させた話は、常に反骨の人であったことを象徴している。その後、吉田博の家は進駐軍のサロンのようになり、博が木版画の技法を将校たちに講義したこと、マッカーサー夫人が版画を見に来たことなど、面白い話が紹介されている。
『吉田博全木版画集』は、吉田博のすべての木版画を掲載している。ただし図版が小さいものが多いのが残念だ。吉田博の長男・次男による個人的なエピソードの紹介、終戦後に吉田博の家を訪ねた米国人による当時の話などが興味深い。欧米人の視点から、なぜ吉田博の木版画が評価されるのか。まず変わりゆく自然を映し取った風景画としての魅力。それに加えて、写実的な西洋美術の技法を木版画の上で究極まで追求、西洋と日本の美術の「融合」により到達した独創的な表現が、その一つの答えと言えそうである。
今年還暦を迎える。つまり本厄の年にあたる。お祓いの代わりにはならないと思うが、厄除けと散歩を兼ねて、地元である横浜・港北の七福神巡りをすることを思い立った。「横浜七福神」巡りとして、横浜日吉新聞に紹介されている。
個人的には「横浜港北七福神」くらいが適切だと思う。休日の午後、3日かけて巡ってみた。
東急東横線の妙蓮寺駅下車。実は小中学生の頃、ピアノを習いに毎週通っていた懐かしい駅である。同じく小学生の時に来たことのある菊名池プールまで徒歩数分。プールの横に小さな社があって、そこに弁財天が祀られている。財運と音楽・芸能の神様。そうか、小学生の頃ここにお参りしていれば、ピアノももっと上手くなれたのかもしれない。ただし、ここの弁財天は、琵琶ではなく、剣と宝玉を持っている。剣は魔除け、宝玉は招福とのこと。
ここから東横線沿いに蓮勝寺(浄土宗)へ歩く。毘沙門天が祀られている。
そして菊名駅から新横浜駅方面へ向かう。右に左に曲がる道。橋の跡。おそらく川だったと思われる道を歩く。もしかしたら暗渠なのかもしれない。
この道沿いに、人気のパン工房シャンドブレとレストラン Maison HANZOYAが並んでいる。
さらに数分歩くと、正覚院(曹洞宗)にたどり着く。大黒天である。
東急東横線の日吉駅下車。慶応普通部の裏を通って、日吉台という高台を歩くこと 10分で金蔵寺(天台宗)に着く。七福神の寿老人が祀られている。
寿老人のお寺でありながら、立派な弁天堂がある。ここに上ると眺めがよい。そして龍の天井画と装飾が立派である。
日吉台を下り、真っ直ぐな道を綱島駅方面に向かって歩く。この辺りは、昔、会社の独身寮や社宅があったところだ。そして綱島台という高台を越えていく。これがなかなかの上り坂。
ようやく東照寺(曹洞宗)にたどり着く。立派なお腹の布袋尊がいた。
久しぶりに綱島駅に来てみたら、スターバックスが入って、ちょっと小綺麗になっていた。日吉台・綱島台という二つの高台を歩いたこともあり、お腹も空いた。地元の鯛焼き屋で、鯛焼きとたこ判を買って帰った。
この日は歩きではなく、車で二つの寺を訪ねる。実は、新吉田と高田を結ぶ幹線道路(宮内新横浜線の一部)が昨年12月に開通したので、それを通ってみるという隠れた目的もあったのだ。今回の開通により、新横浜から新羽、新吉田を経て高田までが直線的につながったことになる。
興禅寺(天台宗)は市営地下鉄グリーンライン高田駅から、結構な上り坂を上ったところにある。車で来たのは正解だった。福禄寿神のお寺である。阿形、吽形の金剛力士像がある山門がある。
市営地下鉄ブルーライン新羽駅から徒歩5分。西方寺(真言宗)は「花の寺」として知られ、特に彼岸花が有名であり、僕も毎年訪れている。七福神は恵比寿大神が祀られている。長い参道の先に茅葺き屋根の山門、そして本堂がある。
蝋梅(ろうばい)がこれから見ごろを迎えるところであった。
横浜七福神を祀っているいずれの寺も、今年は御朱印などを扱っておらず、参拝する人はほとんどいなかった。それぞれの寺にその土地の名前を示す「山号」がつけられている。菊名山蓮勝寺、豆戸山正覚院、清林山金蔵寺、綱島山東照寺…。実際に、山を背にして、立派な本堂が建てられた寺が多い。そして寺それぞれに独特の風情がある。
「横浜七福神」の寺巡りは、横浜港北を歩くよい機会であったと思う。本厄の年だけれども、災いなく平穏な日々が送れますように!