Muranaga's View

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対局中の棋士の心理がわかる『永世竜王への軌跡』

昨年、渡辺明竜王羽生善治名人を相手に、3連敗のあと4連勝して「永世竜王」の称号を獲得したのは記憶に新しい。渡辺竜王が「永世竜王」獲得に至った 41 の対局の棋譜をまとめた本が『永世竜王への軌跡』である。

この本で何と言っても面白いのは、渡辺竜王が語る10局分の自戦記であり、そこでは単に指し手の解説をするだけでなく、対局中の自分の心情を率直に記している。棋士が長考に沈んでいる時、一体全体彼らは何を考えているんだろうというのが、素人の最も知りたいことの一つであろう。この本だとそれがわかる。

たとえば森内竜王へ挑戦する最終局で、渡辺は新手を準備する。そして徐々に新手を繰り出す局面に向かいつつある。


新手は、出す側が研究十分なのに対して、相手は全く想定していないこともある。限られた時間で対応するのは難しく、リードを奪えることが多い。森内竜王の▲6八玉を見た瞬間、胸が高鳴った。(本書 P.33)

そして新手を繰り出して迎えた1日目の夜。


森内竜王は普段と変わらない様子に見えた。するとこっちは「自信があるのだろうか、新手は不発なのか」と心配になって夜はあまり寝ることができなかった。寝ないと勝負にならないので寝ようとするのだが、「寝たい、寝たい」と思うとかえって眠れなくなる。(本書 P.41)

2日目。何とか優勢の場面を作って迎えた終盤。


森内竜王が最後の長考に入る。「もう指す手はないはずだ……では投了?投了ということは竜王になるのか……」などと考え始めたら、平常心ではいられなくなった。

26分で▲3二金。この手が詰めろにならないことは既に読んでいたが、不安になって何回も確かめた。早く勝ちたいという気持ちを必死に抑えながら。(本書 P.49)

ここまでありのままに対局中の心の動きを語った将棋の本は今まであったのだろうか?思わず将棋鑑賞のプロである梅田望夫さんに質問してしまった

自戦記には、昨年の羽生名人との死闘の中から、いずれも名局と言われている第一局、第四局、第七局が選ばれている。

第一局は、「感想戦で羽生も『最後まで難解な将棋』と振り返っていたし、控え室でも『終盤まで優劣不明の名局』という評価で、『羽生の圧勝、渡辺のしょぼい将棋』などと総括したのは当の渡辺だけである。」(梅田望夫『シリコンバレーから将棋を観る -羽生善治と現代』 P.209)という将棋であり、渡辺竜王自身「将棋観を覆された」(本書、P.190)と振り返っている。

第四局は渡辺3連敗で迎えたカド番の対局。羽生優勢の中、打ち歩詰めの局面となり、渡辺が九死に一生を得た戦いである。

そして第七局。どちらが勝っても永世竜王、羽生名人に至っては「永世七冠」というとんでもない称号をかけた対局であり、またそれにふさわしい大熱戦であった。

羽生名人を相手にして尋常ではない戦いを強いられた渡辺竜王が、「はっきり負けを覚悟」したり、「『負けたか』と思い、逃げるように手洗いに立った」り、あるいは「俄然元気が出てきた」りする様子が赤裸々に語られている。第七局、二転三転の末に勝ちが見えたところで発揮される渡辺竜王の直感と集中力は圧巻である。

この自戦記を読むだけでも、将棋ファンにはたまらない一冊であろう。

だが実は、そればかりではない。サービス精神旺盛のこの本には、対局をめぐるエピソードも惜しみなく公開されている。対局の合間にボウリングやフットサルで汗を流したとか、家では食べさせてもらえないので対局中のケーキが楽しみとか、昼食の注文で「熊本ラーメン」を頼むと対局中の木村七段が「同歩」と言って同じものを頼んだとか。棋士たちに親近感を覚える微笑ましい話が散りばめられている。このエピソードを読むだけでも楽しく、棋士の世界の一端に触れることができる。家内はこのエピソードだけを拾い読みした口だ。

一方、将棋ファンは棋譜を並べながら自戦記を読むと、さらに将棋の深さを知る一冊になると思う。僕のように将棋盤を持ち出すのが面倒な方は、竜王戦サイトで過去の棋譜を再現することができる。

そしてこの本と併せて、渡辺竜王のブログ、さらには奥様のブログ「妻の小言。」(たとえば対局中のおやつの話)も読むと、面白さ倍増である。


永世竜王への軌跡 シリコンバレーから将棋を観る -羽生善治と現代