Muranaga's View

読書、美術鑑賞、ときにビジネスの日々

『シリコンバレーから将棋を観る』を読んで

申し訳ないことをしてしまった。4月下旬に梅田望夫さんから新著『シリコンバレーから将棋を観る -羽生善治と現代』を送っていただいて、その後すぐに読み終えていたのに、何の感想も書かないまま3ヶ月近くもたってしまったのである。この間、ゴールデンウィーク中には有志が翻訳を終えてしまうし、その後、梅田さんの周辺は「プチ炎上」するし、その間にも羽生名人が郷田九段の挑戦を退けて名人位を防衛したし、実にさまざまな出来事があった。

近々梅田さんとお会いする機会があるので、その前に慌てて感想を記しておくことにしたものの、雑駁でなかなかまとまらない。そうこうする間にも、棋聖戦が最終戦までもつれこむことになり、梅田さんは道後温泉でウェブ観戦記を書くことになった。観戦記を書くのは大変だと思うが、旅の予定が1週間前に突然決まるという状況をちょっと羨ましく感じる。

さて『シリコンバレーから将棋を観る -羽生善治と現代』は、期待に違わず、いや、それ以上の本であり家族で読ませていただいた。感想が遅くなった言い訳の一つは、本が僕の手元に戻ってきていなかったからである。


シリコンバレーから将棋を観る -羽生善治と現代

発刊から約2ヶ月半、ブログや新聞・雑誌にあらかた感想・書評が出てしまい、梅田さん自身もインタビューに答えている(「イノベーションはなぜ起きたか」)。今さら僕が付け加えることは何もなさそうだが、ごく個人的に印象に残ったことばを中心に記してみたい。

この本は将棋への深い愛と情熱を持った著者が、羽生善治を頂点とする現代将棋の世界を描いた本である。現代将棋を代表するトッププロ4人との直接の交流を通して、その強烈な個性に触れることで、そこにシリコンバレーの技術者集団との類似性を見る。ビジョナリーとしての羽生善治シリコンバレーであれば経営者になりそうな深浦康市(「シリコンバレーの技術者連中のなかにも、十人に一人くらいの割合で社会性を秘めた」者がいて、若いうちに専門技術を究め、「四十歳を過ぎてから人間の総合力を発揮して経営者になっていく。」 本書 P.136より。 )そして孤高の頭脳、純粋な佐藤康光。自らの職業の前提である将棋界を支える使命感と危機感を持った若き創業家タイプのリーダー、渡辺明

かつて谷川浩司九段が「棋士は、勝負師と芸術家と研究者の三つの側面を併せ持つ」(P.272)と言ったそうだ。真理を追求する科学者集団であり、二人で「均衡の美」を作り続ける芸術家であり、そこに勝ち負けの要素が入ることで、イノベーション競争となる。その中にあって、羽生善治は「勝つこと」と「知のオープン化」を両立させることにより、現代将棋の礎を築いた。


「知のオープン化」と「勝つこと」をいかに両立させるか。それこそが、インターネット時代の思想の本質のひとつである。
シリコンバレーから将棋を観る』、P.41


羽生が最後に言う「創造性以外のものは簡単に手に入る時代」とは、産業の世界の「何もかもがコモディティ化していく時代にどう生き残るか」という議論そのものである。

(中略)

突き詰めていけば「最後は創造力の勝負になる」のだと、羽生は考えるのである。
シリコンバレーから将棋を観る』、P.46

こういったことばは、イノベーション競争が熾烈なシリコンバレーに象徴的であろうが、まさに現代のビジネス世界にそのまま通じる。

著者は将棋界に「日本のシリコンバレー」を見たのだと思う。そして将棋と日本社会への愛情から、コミットメントを深めていく。最初は「将棋の普及にインターネットをどう役立てるか」というテーマで入ったそうだが、熱烈な将棋ファンを自認してやまない著者が、いつの間にか将棋世界に取り込まれ、そこに日本の社会への示唆を感じ、深くコミットしていくのである。そして専門性を生かした「ウェブ観戦記」という取り組みにつながっていく。

難解な現代将棋をどう啓蒙し、その魅力をどう伝えていくか。それには棋譜を補う豊潤なことばが必要だ。幸いインターネットでは分量無制限に書くことができる。そうして著者ならではの、著者にしかできないウェブ観戦記が生まれた。


今回の私の挑戦は、インターネットの特性そのものとも言うべき「リアルタイム性と分量無制限」という二つの優位にこだわって、その優位をどこまで活かしたものが書けるのかを試してみよう、という実験でもあった。
シリコンバレーから将棋を観る』、P.90

そして「観て楽しむ将棋ファン」、「指さない将棋ファン」をもっと顕在化させなければならないという著者の思いは、渡辺竜王の持つ危機感に呼応するものである。それがこの本の大きなコンセプトを形成している。「強くなくても将棋ファンを名乗ってもよい」「将棋を『観て楽しむ』ための資格なんて、どこにもない」と言い切ったのは、この本の大きな貢献であり、価値であると思う。


しかし、将棋を観て楽しむために必要最小限のハードルはもっと低い。将棋のある局面の最善手や好手やその先の変化手順を、自分で思いつけなくても、それらを教えてもらったときにその意味が理解できればいいのである。
シリコンバレーから将棋を観る』、P.98

「こんなに弱くても将棋ファンを名乗っていいのか。」「将棋が趣味、というからにはアマチュア初段くらいの棋力がないと。」そう思ってなかなかカミングアウトできない人は大勢いると思う。そこに「趣味は将棋鑑賞」と言ってくれるのだから力強い。

「指さない将棋ファン」というコンセプトを創造した本書編集者である岡田育子さんは「ときに狂気さえ宿った『将棋の世界への愛情あふれる言葉』」(あとがき P.290)で著者を励ましたそうだ。その一端を彼女のブログで垣間見ることができる。

さて、羽生善治が切り拓いた現代将棋に「日本のシリコンバレー」を見た著者は、将棋に仮託する形で、日本社会への未来への示唆を得ようとする。


羽生をはじめとするトッププロ棋士たちの現代将棋の探究をめぐるさまざまな営みをきちんと意味づけて理解するとき、日本社会の未来を切り開いていくうえでの重要な示唆がたくさん得られ、そこから未来への希望の萌芽を感じることができる
シリコンバレーから将棋を観る』、P.34

将棋界には一流の人材を発掘して育成するシステムがある。その苛烈な競争から超一流の人間が現れる。


「超一流」=「才能」×「対象への深い愛情ゆえの没頭」×「際立った個性」
シリコンバレーから将棋を観る』、P.289

同じような仕組みがシリコンバレーで機能している。全世界から各国のトップがやってきて競争する。その中からほんの一握りの人が全世界のトップとして成功する。トップ中のトップが、日々イノベーションを競っているのがシリコンバレーであり、それを人材の層の厚さが支えている。

翻って、日本社会はどうか。こういう厳しい人材養成と競争の仕組みが機能しているようには見えない。将棋という小宇宙は日本社会のあるべき姿を示唆しているのか。残念ながら、この本の中で具体的には語られていないように思う。

このような社会の実現へは、人材の層の厚さが前提になる。トップ人材の発掘・育成は現在の日本では難しい。これは米国が優位である。日本人でも若い人の中には米国の大学に高校から進む人もいる。またシリコンバレーに住み、IT 企業の中で頑張っている人もいる。僕の同級生の一人もそうだ。こういう日本人が少しづつ増えていくことが、いずれ日本の社会を変えていく原動力になることを期待したい。

将棋の世界にたとえていうならば、女流棋士が男性棋士に挑戦するような段階にあるということだろうか。渡辺竜王『頭脳勝負』によれば、女流棋士の勝率は2割程度。また今回の王座戦の予選では4人のトップ女流棋士が男性棋士に一斉に挑み、1勝3敗であった。女流棋士が男性棋士に比べて弱いのは層の薄さ。競技人口が増えることで競争の機会が増え、女流棋士が強くなることが期待されると渡辺竜王は書いている。それと同じように、「上」を伸ばす日本社会への実現へは、チャレンジする若者をどれだけ多くしていくかということにかかってくるのではないだろうか。