Muranaga's View

読書、美術鑑賞、ときにビジネスの日々

30年ぶりに会った恩師は「エッジ・コンピューティングの父」と呼ばれる偉大な先生になっていた

30年前、1994年11月から 1996年5月までの 1年半、ピッツバーグ(Pittsburgh)にあるカーネギー・メロン(Carnegie Mellon)大学の計算機学科に訪問研究員として滞在した。その時にお世話になった先生が、Mahadev Satyanarayanan 教授(Satya)である。

当時、ノートパソコンに Linux が移植され、これからはモバイル・コンピューティングが当たり前になる。そんな予感があった。そこでこの分野では最先端を走っていた、Satya の研究室に滞在した。米国がなぜ日本より計算機科学(コンピュータ・サイエンス)の分野で進んでいるのか。その実態を知るいい機会でもあった。

当時の思い出については、以前にも記している。分散ファイルシステムDisconnected Operation という拡張を施して、モバイルコンピューティング向けの最適化を施していた。

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その Satya が ACM SIGMOBILE のカンファレンス MobiSys 2024基調講演をするために来日するということで、実に 30年ぶりに会うことになった。

Satya とは、毎年クリスマス&新年のカードをやりとりしていたが、来日するタイミングに合わせて、わざわざ時間を取ってくれるという。直接の面識はないが、90年代初めに日本からの訪問研究員であった工藤さんという方も一緒である。僕と滞在時期が重なっていた稲村さんは、北海道にある大学の先生になっているが、ちょうど講義があり、残念ながら参加できないとのこと。

30年ぶりの Satya との再会は嬉しい反面、ここ 10年、ほとんど使っていなくて錆びついてしまった英語が心配である。事前のメールのやりとりは、ChatGPT の助けを借りたが、実際に会って話すとなるとちゃんと伝えられるだろうか?何より Satya の今の研究内容を理解できるだろうか?

…というわけで、日課であるウォーキングの最中に音楽を聴くのをやめ、昔さんざんやった英語教材 DUO 3.0 のシャドウイングを行って、英語脳を呼び覚ます。帰国してからの自分の仕事内容を、英語で話せるようメモを用意しておく。Satya の研究室、Living Edge Lab の主な研究内容をざっと把握する。そんな準備をして、当日を迎えた。

待ち合わせ場所は Satya が宿泊している東京エディション虎ノ門、31階のロビーである。お洒落に詳しい女性の部下たちから「ぜひ Pucci とコラボしているアフタヌーンティー(期間限定)を頼んでみてください」と声をかけられて、オフィスを出る。「Pucci なんて高級ブランド、そもそも知らないよー」と思いつつ、こちらはユニクロでかためたスマートカジュアルである。

東京エディションまで、芝公園にあるオフィスからは、ちぃばすを使って、ものの 15分で到着する。

lobbybar.toranomonedition.com

待ち合わせの 3時より 15分ほど早く、ロビーに上がる。既に工藤さんも来ており、初対面のご挨拶をした。僕の中高の同級生が、工藤さんの前の会社の同期入社であるご縁だけでなく、工藤さんの中高の同級生が、僕の同僚だったという関係も判明した。It's a small world !

互いに自己紹介して打ち解けた頃に、Satya がやってきた!30年ぶり!懐かしい!満面の笑みで僕たちを迎えてくれた。

事前に Satya がロビー バー(The Lobby Bar)を予約してくれており、数時間、軽く飲みながら、話をすることになった。

メニューに表示されているお酒やスナックの値段に驚いたが、Satya は会うなり「今日は私の奢りだ。日本の酒を飲もう!」と言ってくれた。それでも躊躇する僕たちに「心配ない。私はプロフェッサーだよ。今日は懐かしい友人に会いに来たんだ」とのありがたいお言葉。

そんなわけで、獺祭で乾杯!

まず Satya が話し始めたのは、僕たちが一緒に研究をした 90年代当時の Ph.D の学生たちが、今どうしているか、である:

僕が持参した当時のメンバーの写真が、Satya の記憶をさらに呼び起こす契機になったようだ。

僕にとっては、一緒に仕事をした Ph.D の学生、Qi Lu が思い出深い。Satya によれば、中国では教授の言うことはトップダウンで絶対であり、学生が教授に反論することは認められなかった。Qi Lu はその文化から来たので、Satya となかなか対等に議論ができなかった。一方、Brian Noble などは新入の時から、Satya に議論を吹っかけてきた(笑)。ものすごく対照的だったそうである。

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「自分のもとを卒業した Ph.D の学生たちが、自分を超えて活躍しているのが嬉しい。それが教授(教育者)であることの最大の喜びだ」と語る Satya の表情は、本当に楽しそうだ。

そして当然のように、帰国後、僕らがどうしていたか、という話になる。「家族は元気かい?待て待て、その前に君の家族の名前を思い出すぞ」という Satya。それに対して「二人の息子たちはもう独立して働いているので、妻と二人暮らしだ。一人は IT 業界、もう一人はホテル業界で、実はこの Tokyo Edition の運営にもかかわっている会社なんだ」そんな近況を伝えた。

工藤さんは一時期、特許関係の仕事をしていたそうだが、AI 高速化のチップの会社で、今も現役のエンジニアである。一方の僕は、ビジネス・経営の方にシフトして、インターネット・サービス事業(今でいうクラウド)を手がけた。そして今月末にいよいよ 40年勤めた東芝グループを退職する予定である。

Satya は 70歳を過ぎて、現役である。MobiSys で Satya の前に基調講演を行った慶應大学の David Farber 教授は何と 90歳!それを思えば、私はまだまだひよっこだ、と、Satya は意気軒高である。おそらく生涯現役でいるつもりなのかもしれない。そういう Satya の生き方には、僕自身の退職後のキャリアを考えるうえで、大いに刺激を受けた。

僕の個人的な印象を言うと、Satya の研究テーマは、近未来を先取りしているし、その時間軸における目標設定がうまい。数年から 10年の単位で実現するであろうビジョンを明確に描き、そこで必要となるであろう技術を、必ず「動くコード」として実装し、そしてそれを自ら使って検証している。

1990年代はそれがモバイルコンピューティングという領域であったし、「エッジ・コンピューティングの父」と呼ばれるように、2000年代にはクラウドレットと呼ぶ基本的なアーキテクチャを提案した。そして今はそのアーキテクチャの上に、AI も含めたアプリケーションを載せていっている。

Android 上で動くデモもいくつか見せてもらった。たとえばカメラの映像を、印象派のスーラ風に変えるアプリケーション。これは Pittsburgh にあるクラウド上のアプリケーションだが、これをリアルタイムに動かそうとすると、物理的にも論理的にも(ホップ数)もっと近いところにクラウドがあるべきである。その「小さいクラウド」をクラウドレット(Cloudlet)と名づけている。

これらの提案を行った重要な論文(seminal paper)を 2つ教えてくれた:

2018年には、AI とエッジ・コンピューティングについて語っている

biztechmagazine.com

最近では、大規模言語モデル(LLM)に対するプロンプト・エンジニアリングで、エッジ・コンピューティングのプログラムのコード生成を試みている。

大規模言語モデルについては僕も非常に興味を持っていることもあり、量子化とか知識蒸留といったアプローチで、LLM を「圧縮」させて、エッジ側で動かす可能性について、Satya がどう思っているのか、質問してみた。そういうアプローチの可能性も認めたうえで、最近はクローズドな LLM の寡占状態にあり、広く自由に使うにはライセンス料などが研究開発や事業化のネックになる可能性を危惧しているようだ。だから上記の論文でも、プロンプト・エンジニアリングでのアプリケーション・コード生成というアプローチをとった模様。

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Satya は午前中、東京国立博物館に行ってきたという。特別展「法然と極楽浄土」を見たのだろう。Satya の祖国であるインドで生まれた仏教が、1,000年の間に、どのように China や Korea を経て日本に伝わったのか。どう変わっていったのか。キリスト教にも同じような変遷の歴史があり、非常に興味深かったと語っていた。

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そうそう、部下に勧められた Pucci とコラボとのアフタヌーンティーは、本来、予約をしないといけないようだが、実際にはその場で用意できるとのことだったので、一つオーダーして 3人でシェアした。Satya は専任のコンシェルジェがつくほどの VIP 待遇なので、もしかしたらわざわざ用意してくれたのかもしれない。

Satya のパートナーである Deborah Kelly が選んでくれたお土産のマグカップCarnegie Mellon が懐かしく思い出されてくる。

Satyaと別れた後は、工藤さんとビールで親交を深める。二人して、Satya との濃密な 3時間を噛みしめた。本当に偉大な先生だと思う。これだけ偉い先生が、僕たちと気さくに付き合ってくれる。ここ数年経験したことのないような、実に刺激的な時間であった。

tabelog.com

そうそう、Brian Noble とは結局その日は電話で話すことができなかった。翌日、野球の試合を見に行っていたのだという連絡があった。「点を取るたびに緑の傘を掲げて踊るスワローズの応援は面白かったでしょ?」というと、「スワローズがたくさん点を取って、何回も傘ダンスをみることができた」という返事が来た。日本を楽しんでいるようで嬉しい。