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日本史の流れを把握する:山本博文『歴史をつかむ技法』

歴史に興味はあるが、歴史をきちんと把握できているのだろうか。個々の断片的な知識はあるものの歴史の基本的な流れがわかっていない、つまり「歴史がつかめていない」という実感を持つ人は、結構多いのではないだろうか?歴史的な視野・着眼点というものを身につけたい。そういう人のために歴史学者が、歴史を学ぶ上で必要となる基礎的な思考方法、すなわち「歴史をつかむ技法」を伝授する。

歴史をつかむ技法 (新潮新書)

歴史をつかむ技法 (新潮新書)

歴史をつかむ技法(新潮新書)

歴史をつかむ技法(新潮新書)

前半は、歴史学が科学であること、その根拠となる史料の信憑性・信頼性を検討し、それをもとに仮説を実証する学問であることを紹介する。歴史には時代固有のルールがあるので、現代の感覚で安易に過去を見ない感覚は、史料を大量に読み込むことによって身につく。そして史料に基づき時代像を描くが、史料がなければ推測することすら禁欲的に抑制する。この感覚は歴史小説歴史学とを分けるものであり、歴史学者歴史観は相互に批判可能なものである。

著者は「偶然に見える個々の歴史的な事件にも、それぞれの時代に一貫した動因や要因がある」と考える立場をとり、時代に特有の要因が理解できれば、歴史の流れが自然にわかるようになってくるはずと考える。

そして後半は古代から日露戦争までの簡単な日本通史である。日本史におけるそれぞれの時代の流れを見て、歴史をどうとらえるかを紹介する。

最後にさまざまな「歴史観」について触れ、歴史がどのようにとらえられてきたかを振り返る。マルクス主義史観、ウォーラステインの「世界システム」論、アナール学派による社会史。そして日本史の分野では「網野史学」、「司馬史観」(歴史小説歴史学の関係)など非常に興味深いトピックが取り上げられる。そして歴史を学ぶ意味、人生を豊かにする「歴史的思考力」を培うことの大切さを説いて、本は締めくくられる。

全体を通じて、歴史について、客観的な態度でバランスのとれた見方を紹介してくれる本である。この本を読んだ後に、日本史の教科書に目を通すと、細かな情報にとらわれず、少し大まかな視点から見られるようになった気がするから不思議である。

以下は、本の後半に記された通史的な時代の流れについて、自分用のノート:

  • 古代史理解の鍵は、天皇家の「皇統」における「直系」という観念:
    • 天皇の皇女の間に生まれた子供こそが「直系」として皇統を続ける資格があると考えられていたとすると、たとえば聖徳太子がなぜ天皇になれなかったのかが理解できる。
  • 奈良時代律令制に基づく政治(法律で政治制度を規定する「令」、法律に基づいて刑罰を与える「律」)と、仏教への傾倒
    • 「班田収授法」のもと、すべての土地は国家のもので民衆には口分田が与えられ課税された。
    • 国分寺国分尼寺東大寺の廬舎那仏
    • 「日本史」の始まり:『古事記』『日本書紀』の成立
    • 国家体制整備と共に、政争や反乱も多い時代。それは藤原氏の権力伸張というよりも天皇の意志に沿った動きであった。その過程の中で、藤原氏の女性が生んだ皇子も直系の天皇になれるという観念が生まれてきた。
  • 平安時代藤原氏の北家が権力を掌握し、摂政・関白になることで政治を主宰した摂関政治の時代
    • 唐の律令制を基本としながら、日本にあったものに作り替えていったのが「王朝国家」:摂政・関白・検非違使蔵人頭などの令外官
    • 国家が主体となって編纂する正史がなくなり、公家の日記や歴史書が史料となる
    • 10世紀末の藤原道長の時代に、藤原北家が一貫して摂政・関白となる時代が始まり、公家最高の家柄となり、政争には武力を用いることがなくなった(平安中期以降は安定した平和な時代だった)
    • 「王朝国家」は中国製「律令国家」で日本の実情に合わないところを修正した古代国家の完成形態
    • 班田収授が維持できなくなり、「荘園公領制」に。国司である受領が徴税する公領。貴族や大寺社の荘園(徴税を逃れるために成立、受領の支配が及ばない)。摂関などの上級貴族が一国の支配権を握る「知行国」制度に。
    • 皇統で天皇位を独占するために「院政」が成立。その結果として摂関政治体制が崩れてきた
    • 上皇自身が特定の国を知行国(「院分国」)とし、天皇家が「私」の領域に降りてきた。日本史における重大な変化。武士を私兵として雇う。
    • 1156年、保元の乱にて、権威そのものであるはずの上皇摂関家を、武士が躊躇なく攻撃する。天皇家藤原氏中心の古代国家の終焉。
    • 平氏政権は、自らの軍事力を持つ鎌倉幕府に先行する「武家政権」と位置づけられる
  • 鎌倉時代武家政権の成立が古代と中世の画期。南北朝期もそれ以上の画期。
    • 幕府の成立:1185年、源頼朝が守護・地頭の設置を後白河天皇に認めさせる。1192年に征夷大将軍に。
    • 政治機構はシンプル、中央は政所・侍所・問注所。地方は守護・地頭。
    • 1221年、承久の乱にて朝廷の権威が決定的に低下。北条氏による執権政治へ。
    • 幕府を滅亡に導く直接の原因は、「両統迭立」という皇統の争い。持明院統大覚寺統の二つの家が交互に天皇位につく。(弱体化した幕府もその場しのぎの対応)
    • 幕府滅亡のそもそものきっかけは後醍醐の天皇位への執着だったが、北条家(得宗家)への御家人層の反感が積み重なり、足利高氏新田義貞の討幕となった。得宗家は滅亡したものの御家人は健在。
  • 南北朝
    • 武家で分家が独立色を強めて惣領制が解体しつつあった。そのため宗家・分家が、それぞれ南北朝に分かれるということになり、南北朝の戦いは長引いた。
    • 皇統をめぐる中央の争いから、地域の武士団が勢力争いをする時代への移行
  • 室町時代足利義満の時代に南北朝は終焉、名実ともに室町幕府の時代へ
  • 織豊政権による天下統一
    • 卓越した信長の軍事力、しかし京都に上るためには室町幕府復興という名分が必要だった。
    • 近世はいつ始まったか。天下をほぼ統一した織田政権の画期性を見るか、秀吉による太閤検地・刀狩りによって実現した「兵農分離」か。
    • 朝廷は秀吉を信長の後継者と認め、武家政権を委ねた。
    • 秀吉は本来公家のつく官職である「関白」になることで武家政権を運営。
    • 「唐入り」は謎が多いが、秀吉は明に軍事圧力をかけ、東アジア海域の中継貿易の主導権を握ろうとしたと考えられる。
  • 江戸時代:
    • 関ヶ原の合戦は豊臣対徳川ではなく、豊臣政権内部の戦い
    • 「幕藩制国家」では全国の大名は一元的に幕府に服属、大名は藩を支配。武家政権の完成形。
    • 政治機構は巨大で複雑。老中や三奉行は能力重視で、幕府官僚的な位置づけ。近代以降の官僚制度の基礎となった。
    • 領地が個々の武士の独自財産となっていた中世に対し、上から給付されたものとみる近世社会への大きな変化
    • 朝廷に残されたのは年号の制定、官位の叙任書類の発給くらい。実質は幕府が握る。しかし名目だけとはいえ、将軍も大名も朝廷の家臣という理屈も生まれた。
    • 1853年のペリー来航以降のキーワードは「尊王攘夷」、開国を拒否して戦争をするのを回避するのは、武家政権にとってふさわしくないという通念。
    • 時に理性的な判断よりも、それぞれの時代を支配する激情が勝利した。
  • 明治維新と日本の近代:
    • 薩長土肥版籍奉還で藩の領地は新政府のものへ。廃藩置県により中央政府が派遣する知事・県令が地方行政にあたる。討幕以上の大きな変化が軍事的動乱なしに実現した。
    • 旧藩主は東京居住、藩主と藩士の主従関係は解消、士農工商という身分制度もなくなり四民平等に。資本主義時社会の前提を作ったという意味がある。
    • 地租改正・徴兵令・資本主義化、こういった近代化に取り残された武士たちが起こした反乱も西南戦争をもって終結
    • 以降、政府への反抗は自由民権運動という形で行われる。
    • 大日本帝国憲法、議会制
    • 日清戦争日露戦争国民国家となった明治政府のもとで外国との戦争が恒常的に行われるようになった。

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