Muranaga's View

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キュビスムとは対照的!「もうひとつの19世紀 ブーグロー、ミレイとアカデミーの画家たち」展(国立西洋美術館)

「キュビスム展」を見た後は、西洋美術館の「Cafe すいれん」で中庭を眺めながら、「トリュフ香る茸のアーリオ・オーリオ」のランチ。藤田真央のエッセイ『指先から旅をする』をちょうど読んだばかりで、そのアーリオ・オーリオ好きがわかっていたので、つい頼んでしまった。

そして西洋美術館の常設展に足を運ぶ。企画展として、「もうひとつの19世紀 ブーグロー、ミレイとアカデミーの画家たち」展が開催されている。

企画展の Webサイトチラシ(PDF)から、その概要を引用する:

19世紀後半のフランスおよびイギリス美術と聞いて、みなさんが思い描くのは一体どんな絵画でしょうか。フランスにおけるレアリスムや印象派、あるいはイギリスのラファエル前派や唯美主義による作品が浮かんだ方も少なくないでしょう。しかし、今日エポックメーカーとして俎上にあがる芸術運動と画家たちの背後には、常にアカデミー画家たちがおり、彼らこそが当時の画壇の主流を占め、美術における規範を体現していました。

かれらは、それぞれの国において最も権威ある美術教育の殿堂であったアカデミー――1648年、フランスで創立された王立絵画彫刻アカデミーと1768年にイギリスで誕生したロイヤル・アカデミー・オブ・アーツ――に属し、古典主義的な芸術様式を遵守した画家たちです。

しかしアカデミーの権威と伝統は、社会の急速な近代化によって揺らぎ、19世紀後半になるとアカデミスムは衰退の危機をむかえます。そんななか、アカデミーで地歩を固めた画家たちは時代の変容や新たな画派の登場に決して無関心ではありませんでした。むしろ変化に富んだ時代において、需要に応じて主題や様式、媒体を変容し制作を行いながら、アカデミーの支柱としてその伝統と歴史を後世に継承しようと努めたのです。本小企画展では、ウィリアム・アドルフ・ブーグロー(1825-1905)やジョン・エヴァレット・ミレイ(1829-1896)をはじめとする両国のアカデミー画家たちのキャリアを辿り、多様化した主題やモティーフ、モデルに焦点をあてることで、その柔軟かつ戦略的な姿勢と彼らが率いた「もうひとつの19世紀」を浮き彫りにします。

以下、展覧会に掲示されている説明を要約しつつ、僕の感想を交えながら、ブーグロー、ミレイ、ラファエル・コランといった画家たちの作品を紹介する。

1. 多様化する主題と活動 ー 古代と近代のあわいで

19世紀後半、フランスとイギリスのアカデミーの権威は揺らぎ、歴史画を頂点とした絵画ジャンルにおける優劣がなくなりつつあった。アカデミー画家たちもその需要を意識しながら、多種多様な作品を生み出していく。

古代への憧憬を宿すブーグローによる《音楽》、《クピドの懲罰》、《武器の返却を懇願するクピド》は、サロン(官展)への出品ではなく、個人邸宅の装飾として制作された。

ブーグロー《音楽》1855-56年頃

ブーグロー《クピドの懲罰》1855-56年頃

ブーグロー《武器の返却を懇願するクピド》1855-56年頃

《純潔》は 1893年のサロンに出品された。愛くるしい子どもと若い女性というモティーフは、《姉弟》と似ており、いわゆる「ファンタジー・ペインティング」に属するものである。

ブーグロー《純潔》1893年

コランの《詩》と《楽》は、個人の邸宅を飾るために製作された。《詩》に描かれる女性は同時代、《楽》の女性像は古代のニンフやミューズの姿を思わせる。アカデミックな手法にとらわれず、明るい色彩でやや粗い筆触で背景を描いている。

コラン《詩》1899年

コラン《楽》1899年

僕はブーグローという名前を知らなかったのだが、コランと言えば、黒田清輝が留学時の先生にあたる。コランの明るい色彩は黒田清輝の《湖畔にて》に通じる。黒田は当時の新たな芸術運動ではなく、伝統的なアカデミーの絵画を日本に持ち帰り、「洋画」の「新派」として日本画壇の中でも自らを権威づけた。ある意味、アカデミーの「システム」も日本に持ち帰ったと言えるのかもしれない。

2. 肖像画 ー 私的で親密な記憶

肖像画は、確かな収入源として多くの画家が携わった分野である。従来はモデルとなる人物の社会的立場や野心を広める手段として用いられてきた肖像画であるが、ここに展示されているのは主に作家とモデルの親密さを示す、私的な肖像画である。印象派の画家たちが近しい人々をモデルにしたが、アカデミーの作家も同様であった。

ブーグロー《ガブリエル・コットの肖像》1890年

この肖像画のモデルは、ブーグローの弟子であり友人である画家コットの娘ガブリエルである。こちらに向けられた優しいまなざしと笑みが印象的で、画家とモデルとの親密な関係性がうかがえる。ガブリエルの結婚の際に、母親への贈り物として制作された。

3. ブーグローとミレイ ー 子どもへのまなざし

フランスのアカデミーの重鎮であったブーグローは、ニンフやクピドをモティーフとした「ファンタジー・ペインティング」と、農村や山間などを舞台に現実の人々をモデルに描いた作品で、子どもたちを描いている。ブーグローは 1870年代初頭より、新古典主義や宗教的な主題から離れ、子ども時代をテーマに普遍的な純真さを表わした牧歌的な作品を手がけるようになる。画廊と専売契約を結び、《少女》のような商業的な人物画も制作した。

ブーグロー《少女》1878年

姉弟》は前述したように、「ファンタジー・ペインティング」として位置づけられる。

ブーグロー《姉弟1878年

イギリス・アカデミーの重鎮であったミレイの場合、肖像画と「ファンシー・ピクチャー(空想絵画)」で、愛らしい子どもたちを描いている。ファンシー・ピクチャーは、18世紀後半に流行した風俗画の一種で、想像を交えながら子どもや女性のいる日常の情景を描いた。ジョシュア・レノルズやトマス・ゲインズバラの作品が代表的である。

ミレイはおよそ一世紀ぶりにこの分野を再興したが、子どもたちの姿を理想化するのではなく、鋭い観察とユーモアをもって現実の「子どもらしさ」を取り入れ、物語要素を重視した。《あひるの子》では、不安げな子どもの表情やアンデルセンの童話を想起させるあひるの描写に、ミレイ特有の要素が見て取れる。

ミレイ《あひるの子》1889年

1850年代半ばより、ミレイはラファエル前派から距離を置き、アカデミーでの地歩を固めた。その方向転換については、今日に至るまで賛否の声があるものの、当時の画壇においては尊敬の的であった。

ブーグローは知らなかったが、ミレイの名前や作品は知っている。ロセッティなどとともに、ラファエル前派だと思っていたミレイが、実はアカデミーの重鎮だったというのは驚きであった。

ファンシー・ピクチャーについては、佐藤直樹『東京藝大で教わる西洋美術の見かた』に解説があり、さらに一つの章を割いて、ミレイのファンシー・ピクチャーを説明している。それによれば、ミレイがラファエル前派として、アカデミー初代校長であるレノルズを批判していたのに、後年、臆面もなくそれに倣うことでアカデミーでの立場を確立をめざしたのは、ミレイの政治的野心の表れとしている。

なかなか興味深い企画展であった。印象派、新印象派ナビ派フォーヴィズムキュビスム…。大きくアートのあり方が変わる中で、伝統的な規範であるアカデミーはどうしていたのか?

確かにモティーフや手法は多様化しているが、その根幹はできるだけ現実を写実的に描こうとする伝統的な絵画のあり方であろう。主観的に現実を分解して画面を構成していく「キュビスム」の展覧会を見た後だけに、そのことが非常に対照的に感じられ、面白かった。

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