ディーラーの作業が予定より半日早く終了したので、代車から愛車に乗り換え、三菱一号館美術館で開催されている「テート美術館所蔵 コンスタブル展」に出かける。一歳年長の J. M. W. ターナー(1775-1851年)とともに、英国の風景画の評価を高めたジョン・コンスタブル(1776-1837年)の回顧展である。
初期の肖像画に始まり、戸外で描き始めた風景画、そして後年の「ピクチャレスク(picturesque)」な絵画を一気に展示している。「絵画なんだから pictureque なのは当たり前なのでは?」と突っ込みたくなるが、美術史における専門用語らしい。イギリスの庭園美学において用いられた、文字通り「絵に描いたような」風景、美しく崇高な風景を指す言葉だそうだ。たとえば《虹が立つハムステッド・ヒース》では、虹を描くとともに、画家の頭の中にあるモチーフとして現実には存在しない風車が描き加えられている。
今回の展覧会では、素敵な装丁の公式図録が販売されている(オンラインショップでも販売されている)。この図録を参考にしながら、コンスタブルのエピソードを取り上げてみたい。
コンスタブルは、後年は「ピクチャレスク」な風景画を描いているが、最初は「自然のままに」描くことを志し、技術を磨いた。新たな主題を求めて、イギリス各地、欧州各地を旅したターナーと違い、故郷の近辺や身近な情景を好んで描いた。《フラットフォードの製粉所(航行可能な川の情景)》は、コンスタブルの実家の製粉所を遠方に描いている。
《ハムステッド・ヒース、「塩入れ」と呼ばれる家のある風景》は、妻の療養のために、1819年から1826年まで、夏の間移り住んだ土地を題材にしている。
一時期、空の描き方、雲の描き方の研究を行い、その成果は《チェーン桟橋、ブライトン》などに表れている。ここではかつての漁師町が、近代的なリゾートに浸食されていく様子が描かれている。優雅にたたずむ人と、ピクチャレスクな漁師。新しいものと古いものを対比するように、コントラストを効果的に用いている。
1832年にロイヤル・アカデミーの展覧会に向けて発表された大作《ウォータールー橋の開通式》は、ターナーの《ヘレヴーツリュイスから出航するユトレヒトシティ64号》と並べて展示された。ターナーは自作よりもサイズが大きく、物語性に富み、暖色を用いたコンスタブルの作品の方が注目を集めることを懸念したのだろう。自作に最後の手直しが許される日に、前景に明るい赤のブイを描き込んだ。今回の展覧会では、その二つの作品が並べられ、1832年の競合が再現されている。
今でこそターナーと並んで評価されるコンスタブルだが、生前の評価は高いものではなかった。ターナーが26歳の若さでロイヤル・アカデミーの正会員になったのに対し、コンスタブルが同じ地位についたのは53歳。そして英国でその評価が高まったのは、没後50年ほどして、コンスタブルの娘が膨大な数の父親の作品を、英国の複数の美術館に寄贈してからになる。
一方、コンスタブルを早くから評価していたのは、隣国のフランスであった。フランスの風景画には見られない、明るい色彩の表現にフランスの画家や批評家たちが魅了されたと言う。そしてコンスタブルが素早い筆の運びで、厚く絵具を塗ったり、「コンスタブルの雪」と呼ばれる白い斑点で光や大気を表現したりしたことは、19世紀後半の印象派へ影響を与えたと考えられている。