Muranaga's View

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「キュビスム展―美の革命」は、新たな学びの機会(国立西洋美術館)

閉幕まで 2週間。ようやく「キュビスム展—美の革命」に出かける。現代美術が苦手な僕にとって、その先駆けとなるキュビスムは「わざわざ見に行かなくてもいいかな」という位置づけの展覧会だったのだ。そもそもキュビズム(「ス」ではなく「ズ」)だと誤解していたくらい。

ただ食わず嫌いはよくない。あまり関心がなくても、行ってみて新たな学びがあり、興味が出てくることも多い。さらに NHK 日曜美術館三浦篤先生の解説や、今回の展覧会を企画・監修した田中正之先生の YouTube の講座を聴いて、キュビスムを学ぶまたとない機会であると思い、重い腰を上げて国立西洋美術館に行くことにした。何よりパリまで行かずとも、ポンピドゥーセンターにある近代美術館の 50点もの作品が見られるのだから。

cubisme.exhn.jp


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展覧会のサイトから概要を引用する:

20世紀初頭、パブロ・ピカソジョルジュ・ブラックという2人の芸術家によって生み出されたキュビスムは、西洋美術の歴史にかつてないほど大きな変革をもたらしました。その名称は、1908年にブラックの風景画が「キューブ(立方体)」と評されたことに由来します。伝統的な遠近法や陰影法による空間表現から脱却し、幾何学的な形によって画面を構成する試みは、絵画を現実の再現とみなすルネサンス以来の常識から画家たちを解放しました。キュビスムが開いた視覚表現の新たな可能性は、パリに集う若い芸術家たちに衝撃を与え、瞬く間に世界中に広まり、それ以後の芸術の多様な展開に決定的な影響を及ぼしています。

この度、パリのポンピドゥーセンターからキュビスムの重要作品が多数来日し、そのうち50点以上が日本初出品です。主要作家約40人による絵画や彫刻を中心とした約140点を通して、20世紀美術の真の出発点となったキュビスムの豊かな展開とダイナミズムを紹介します。日本でキュビスムを正面から取り上げる展覧会はおよそ50年ぶりです。

展覧会の構成は以下の通り:

本展は全14章で構成されます。 前半は、ポール・セザンヌアンリ・ルソーの絵画、アフリカの彫刻などキュビスムの多様な源泉を探る「キュビスムの起源」から始まり、ピカソとブラックが2人きりの緊密な共同作業によって全く新しい絵画を発明する軌跡を追います。

後半では、その後のキュビスムの展開に重要な役割を果たすフェルナン・レジェ、フアン・グリス、ロベールとソニア・ドローネーら主要画家たち、キュビスムを吸収しながら独自の作風を打ち立てていくマルク・シャガールら国際色豊かで個性的な芸術家たちを紹介します。

また、第一次世界大戦という未曽有の惨事を経て、キュビスムを乗り超えようとするル・コルビュジエらのピュリスム(純粋主義)や、合理性を重視する機械美学が台頭してくるまでを展覧します。

そしてサイトでは、主な作品とその解説が見られるようになっている。

ポンピドゥセンターや西洋美術館所蔵の作品は、基本的に写真撮影 OK だったので、自分が気に入った作品を取り交ぜながら紹介していこう。展覧会の各章の入口に掲げられた解説を、要約・引用する。

1. キュビスム以前 その源泉

セザンヌ、ゴーガン、ルソーの絵と、アフリカの仮面や彫像が展示されている。

セザンヌは、幾何学的な形態による画面構成や、多視点を導入して遠近法を解体した。絵画のあり方を、写実的に模倣するものから構築的なものへと変えた。ゴーガンは西洋以外の文化圏にまなざしを向け、「プリミティヴ」と称される素朴な造形をもたらした。ルソーは正規の美術教育を受けていない、日曜画家ならではの自由な表現を行った。

当時、植民地化が進められたアフリカやオセアニアから多様な造形物がヨーロッパにもたらされていた。ピカソやドラン、ブラックらはそうしたものを収集し、西洋美術とは異なる表現のあり方を自分の作品に取り入れていった。

2. 「プリミティヴィスム」

アフリカやオセアニアの美術・造形の表現は「プリミティヴィスム」と呼ばれてきた。当時の西洋人からは「原始的(プリミティヴ)」と考えられていたからだが、これも西洋の美的価値観によるものである。本来の文化的な意味が理解されていたわけではないが、前衛の芸術家にとって、西洋の伝統的な規範に挑戦する拠りどころとなった。

1907年にピカソは《アヴィニヨンの娘たち》を大きく描き直す。それを見たブラックは、その過激さに驚き、ピカソへの応答として《大きな裸婦》を描いた。こうして始まった二人の画家の芸術的な対話が、キュビスムという大きな革命を引き起こす。

ピカソ《女性の胸像》は、《アヴィニヨンの娘たち》の習作の一つ。

ピカソ《女性の胸像》1907年6-7月

ブラック《大きな裸婦》1907年冬-1908年6月

3. キュビスムの誕生 セザンヌに導かれて

ブラックは、1906年から 1910年まで、セザンヌが制作した地レスタックに 4回滞在、セザンヌに応答する作品を描く。1908年11月にカーンヴァイラー画廊で開かれたブラックの個展で、その作品が展示され、その展覧会評で「ブラックは形態を軽んじていて、景観も人物も家々もすべてを、幾何学的図式や、キューブ(立方体)に還元してしまう」と評された。これがキュビスムという名称の起源になる。

ブラック《レスタックの高架橋》1908年初頭

ブラックは、橋や家々を、立方体をはじめとする幾何学的な形態に還元し、それらを遠近法を無視した浅い空間に積み重ねる、新たな表現に到達する。

4. ブラックとピカソ ザイルで結ばれた二人(1909-1914)

ドイツ出身の画商カーンヴァイラーは、1907年に 23歳でパリに移住、画廊を開いた。まもなくピカソと知り合い、1908年11月にブラックの個展を開催すると、のちに二人と専属契約を結んで、その制作を支えた。ピカソとブラックの作品をパリで唯一展示していたカーンヴァイラー画廊は、キュビスム震源地的存在となる。

1908年頃からブラックとピカソは、互いのアトリエを訪ねるほど交流を深め、ブラックは「ザイルで結ばれた登山者のようだった」と当時の二人の関係を改装している。

2人の造形的実験は、1909年夏には「分析的キュビスム」の作品にいたる。対象物はいくつもの部分に分解され、無数の霧湖面によって構成されたようなモノクロームの画面が登場した。

ピカソ《肘掛け椅子に座る女性》1910年

1910年半ば以降は、モティーフの識別が困難なほどに作品は抽象度の度合いを増す。絵画は何かを写実的に描写するのではなく、自律的なイメージが構成される場となった。キュビスムは抽象的で難解なものになるが、ピカソとブラックは抽象絵画へは向かわず、絵画と現実との関係を問い続ける。

ブラック《ヴァイオリンのある静物》1911年11月

ブラック《円卓》1911年秋

1912年になると「総合的キュビスム」の段階を迎え、コラージュや新聞や壁紙を貼り付けるパピエ・コレ(貼られた紙)といった新たな技法が試みられた。

ブラック《果物皿とトランプ》1913年初頭

ブラックが自作のパピエ・コレ作品を絵筆で真似た油彩画で、壁紙の木目模様は、塗装業者用のヘラで引っ搔いて再現され、そこに果物やトランプ、文字などが配置された空間が広がっている。

5. フェルナン・レジェとフアン・グリス

ブラックとピカソが創始したキュビスムは、若い芸術家の間に瞬く間に広がり、多くの追随者を生んだ。なかでもレジェとグリスは、カーンヴァイラーによってキュビスムの発展に欠かせない芸術家とみなされる。

レジェは、1910年に《縫い物をする女性》のような最初のキュビスム絵画を描く。ドローネーとともに豊かな色彩表現を追求するとともに「コントラスト(対照・対比)」を自らの制作の原理とし、それは抽象絵画へも発展した。

レジェ《縫い物をする女性》1910年

レジェ《形態のコントラスト》1913年

スペイン出身のグリスは、同郷のピカソが住む「洗濯船」を拠点として、挿絵画家として活動後、1911年より本格的に油彩座を描くようになる。《本》に見られるように、彼もまたセザンヌから学ぶことから始めた。そして1912年にキュビスムの画家としてデビューする。ピカソとブラックの発明を吸収し、明晰な構図と異なる質感の巧みな描写、鮮やかな色彩を特徴とする独自のキュビスムを展開した。

グリス《本》1911年

グリス《ヴァイオリンとグラス》1913年

《ヴァイオリンとグラス》では、いずれもカンヴァス自体がテーブルに見立てられ、断片化されたグラスや楽譜、楽器などのモティーフが折り重なっている。

6. サロンにおけるキュビスム

ピカソとブラックの影響を受けた若いキュビストたちは、主にサロン・デ・ザンデバンタン(独立派のサロン)やサロン・ドートンヌ(秋のサロン)といった大規模な展覧会で作品を発表したため、今では「サロン・キュビスト」と呼ばれている。彼らはキュビスムを理論化し、グレーズとメッツァンジェは『「キュビスム」について』という著書を 1912年に発表する。

同年にはキュビスムのグループ展である「セクション・ドール(黄金分割)」展も開催され、グレーズの《収穫物の脱穀》などが出品された。キュビスムという新しい造形によって、農作業という伝統的主題と現代性を融和させることにより、キュビスムをフランス美術の伝統の延長線上に位置づけようとしたグレーズの主張が反映されている。

グレーズ《収穫物の脱穀》1912年

レジェは 1911年以降、「サロン・キュビスム」を代表する画家として活躍し、円筒形(チューブ)を多用とした独自の表現によってチュビストとも呼ばれた。

ドローネーの《パリ市》は、1912年のサロン・デ・ザンデバンダンに出品された「サロン・キュビスム」の代表的な作品である。画面の左右にはパリの町とエッフェル塔、中央には古典的な三美神を想起させる裸婦が描かれている。左側の船と橋のモティーフはルソーの自画像から取られたもの。

ロベール・ドローネー《パリ市》1910-1912年

7. 同時主義とオルフィスム ロベール・ドローネーとソニア・ドローネー

アポリネールはロベール・ドローネーを「オルフェウス的(詩的)キュビスム」と呼び、「オリフィスム」は色彩によって構成された「純粋な」絵画であると捉えられた。

ロベール・ドローネー自身は、妻ソニアとともに「同時主義」という独自の概念を打ち立てる。色彩同士の対比的効果を探求するだけでなく、異質な要素を同一画面に統合する方法でもあり、《パリ市》では古代の三美神と現代のエッフェル塔など、多様な要素が一つにまとめられている。

「同時主義」は空間や動きを示す原理でもあり、ソニアがダンスホールの情景を描いた《バル・ビュリエ》によく示されている。

ソニア・ドローネー《バル・ビュリエ》1913年

8. デュシャン兄弟とピュトー・グループ

画家で版画家のジャック・ヴィヨン(本名ガストン・デュシャン)と彫刻家レイモン・デュシャン=ヴィヨンの兄弟がパリ郊外のピュトーに構えたアトリエには、末弟のマルセル・デュシャンやクプカ、ピカピアといったサロン・キュビストたちが、1911年頃から毎週日曜日に集い、「ピュトー・グループ」と呼ばれた。

(左から)マルセル・デュシャン、ジャック=ヴィヨン、レイモン・デュシャン=ヴィヨン、ピュトーのアトリエの庭にて、1910-1915年頃

彼らを中心に組織されたのが、1912年開催の展覧会「セクション・ドール(黄金分割)」である。黄金比や非ユークリッド幾何学といった数学や科学をキュビスムと理論的に結び付けようとした。たとえばクプカの《挨拶》では、複数の時間が同一画面内に描かれることで動きが示されている。

クプカ《挨拶》1912年

レイモン・デュシャン=ヴィヨン《座る女性》1914年

9. メゾン・キュビスト

1912年のサロン・ドートンヌには、「メゾン・キュビスト(キュビスムの家)」が展示され、キュビスムを建築や室内宋勅へと展開する試みがなされる。

会場にはデュシャン=ヴィヨンのデザインによる 2階建ての建築模型が展示された。

レイモン・デュシャン=ヴィヨン「メゾン・キュビスト」建築正面(模型)、1912年

10. 芸術家アトリエ「ラ・リュッシュ」

モンパルナスの集合アトリエ「ラ・リュッシュ(蜂の巣)」には、フランス国外から来た若く貧しい芸術家たちが集うようになり、キュビスムを吸収しながら、独自の前衛的な表現を確立していく。

その中には、ベラルーシから来たシャガールルーマニア出身のブランクーシ、イタリア人のモディリアーニらがいた。レジェも一時ここに暮らし、《縫い物をする女性>など最初のキュビスム絵画を描いている。

(左)ラ・リュッシュ、(右)マルク・シャガール、1968年

シャガールがパリに移住して描いた故郷の婚礼の光景が《婚礼》である。画家が生まれ育った東欧ユダヤ人の共同体「シュテットル」を象徴する人物像がモティーフとなり、三角形や帯状の面からなる空間構成はキュビスムの影響をうかがわせ、鮮やかな色彩にはドローネーとの関連が推察される。

シャガール《婚礼》1911-1912年

シャガールは 1914年に一時帰国し、戦争の勃発により 1923年までパリに戻れなくなるが、その間もキュビスムの言語を自作に取り入れ続けた。

シャガールキュビスムの風景》1919-1920年

モディリアーニは、一時「ラ・リュッシュ」に身を寄せ、同時代の「プリミティヴィスム」やキュビスムを吸収し、《女性の頭部》のようにシンメトリーの線と簡素なフォルムを特徴とする細長い人物像を生み出した。この頭部の表現は、彫刻から絵画にも受け継がれる。

モディリアーニ《女性の頭部》1912年

11. 東欧からきたパリの芸術家たち

1920年に2回目の「セクション・ドール」展が開催された時、中心になったのはグレーズやキーウ出身のアーキペンコに加え、モスクワ出身のレオポルド・シュルヴァージュだった。参加者には多くのロシアや東欧の芸術が名を連ねた。

展覧会ではシュルヴァージュ《カップのある静物》やエッティンゲンの作品が展示されている。

12. 立体未来主義

20世紀初頭のロシアでは、西ヨーロッパからもたらされた前衛的な造形表現と、ロシア正教会のイコンなど伝統的な民衆芸術などが結びつき、「ネオ・プリミティヴィスム」と呼ばれる運動が生まれた。ミハイル・ラリオーノフとナターリャ・ゴンチャローワはこの運動を推進した画家たちである。

ラリオーノフ《散歩:大通りのヴィーナス》1912-1913年

ラリオーノフの《散歩:大通りのヴィーナス》では、あえてヨーロッパの正統的な主題である「ヴィーナス」をタイトルに掲げながら、パリの大通りを遊歩する娼婦を描くことで、西欧美術の伝統を挑発している。荒々しいタッチは「ネオ・プリミティヴィスム」を特徴づける一方、文字の導入や幾何学的な表現はキュビスムの影響を、複数の脚による動きの表現はイタリアの未来派との関連が認められる。

13. キュビスム第一次世界大戦

1914年に勃発した第一次世界大戦では、フランス人芸術家の多くが前線に送られた一方、非交戦国スペイン出身のピカソやグリス、女性画家たちは銃後にとどまり、大戦中のキュビスムを担う。デュシャン=ヴィヨンは戦地で病を患い、1918年に早逝した。

グレーズ《戦争の歌》1915年

グレーズは従軍中のスケッチをもとに「戦争の歌」を指揮する作曲家フローラン・シュミットの姿を描いた。グレーズがシュミットに宛てた書簡によれば、人物像を取り囲む同心円状の曲線や色彩の選択は、シュミットの音楽から着想を得たと言う。この油彩画は 1915年に亡命したニューヨークで制作された。

フランスとドイツとの間の戦争により、キュビスムナショナリズム的な政治闘争の対象にもなった。キュビスムの芸術家たちの作品がドイツ人画商カーンヴァイラーによって扱われていたこともあり、キュビスムは戦前からドイツと結び付けられて、揶揄されたりもした。

大戦がはじまると、キュビスムはドイツによる文化侵略だと非難されるようになる。これは、キュビスムこそがフランスの伝統を受け継ぐフランス的な美術であると考えていたサロン・キュビストたちとの主張とは真っ向から対立するものであり、アポリネールらはキュビスムを擁護する立場から反論を行った。

14. キュビスム以降

大戦中に亡命したカーンヴァイラーに代わり、戦後はレオンス・ローザンベールがキュビスムの代表的画商になり、彼の画廊で 1919年にキュビストたちの個展が次々に開催された。キュビスムは再び最先端の芸術表現としての地位を回復するが、より平明で簡潔な構成へと変化もした。

一方、戦争が終結した間もなく、アメデ・オザンファンとシャルル=エドゥアール・ジャンヌレ(ル・コルビュジエの本名)は、キュビスムを乗り越え、機械文面の進歩に対応した新たな芸術運動として「ピュリスム(純粋主義)」を宣言した。

スイス生まれのル・コルビュジエ静物画は簡潔な形態と厳格な構図を特徴とする。長い年月をかけて洗練された純粋な形に達しており、機能美をまとったオブジェとみなされた。

ル・コルビュジエ静物》1922年

以上がこの展覧会の概要となる。

正直、重い腰を上げて行ってよかった。セザンヌが近代絵画の父と呼ばれる理由がよくわかったし、絵は写実的に描くものではなく、構成的に描くものであるというキュビスムが、その後の現代美術、抽象美術への橋渡しとなる運動であったことを改めて感じ取ることができた。よい学びの機会であった。

さらに理解を深めるために、美術入門書「もっと知りたい」シリーズの松井裕美『もっと知りたい キュビスム』の一読を勧めたい。展覧会の復習になると同時に、展覧会では出てこなかったキュビスムの芸術家たちの作品も数多く紹介されている。

永井隆則『もっと知りたい セザンヌ』では、「セザンヌが私の唯一のせんせいだった。…私は何年も彼の絵を研究した。…セザンヌはまるで皆の父親のような存在だった。私たちは彼に守られています」というピカソの言葉を紹介している。展覧会でも、またこの本でも述べられているように、セザンヌ幾何学的単純化デフォルマシオン(変形)は初期キュビスムの、パサージュ(推移)は分析的立体主義の手本となった。その後、ル・コルビュジエらによるピュリスムは、セザンヌ幾何学性を美学的根拠の一つと見なした。

印象派以降のフランス絵画史については、下記の展覧会メモがある:

muranaga.hatenablog.com