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「没後70年 吉田博展」(東京都美術館)にて、200点もの木版画を堪能する

「没後70年 吉田博展」が、東京都美術館で1月26日より開催されている。吉田博(1876 - 1950)は、洋画家としての卓越した技術と、日本の伝統的な版画技法を統合することにより、独創的な木版画制作を確立した画家である。吉田博の絵は海外での評価が高く、ダイアナ妃やフロイトがその版画を所有していたことでも知られている。この展覧会では、吉田博の後半生における250数点もの木版画の中から、200点弱を一挙公開して、その魅力を追求する。

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東京都美術館の広いフロアを使って、これだけ多くの吉田博の木版画をじっくり観ることができるのは、至福である。油彩画・水彩画に見られる微妙なグラデーションやぼかしを、緻密に計算されて彫られた版木を組み合わせ、平均で 30数回、最多で 96回という摺りを重ねることで、木版画上で実現していく。できあがった作品は「これが版画なのか?」と思うような写実的な絵となっている。

大自然を愛した登山家でもあり、何日も山に露営して、その変化の一瞬の美しさをとらえた風景画が多い。そして日本だけではなく、米国・欧州・アジア、世界各国を旅した画家でもある。変化する山の空気、湿気を帯びた日本の空気、あるいは乾いた砂漠の空気…。その場所の空気までもが感じられるようだ。

日本画家であった川瀬巴水の版画は、よりコントラストを強調した色彩であり、また風景の中に人物を登場させるなど、抒情性が感じられるが、それとは違った魅力を、吉田博の版画は放っている。川瀬巴水が伝統的な浮世絵の延長線上で版画を制作していったのに対し、吉田博は西洋美術の技法を日本の木版画に取り入れ、その表現を磨いていったと考えられる。

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吉田博が木版画制作を手掛けるようになったきっかけは、「新版画運動」の渡邊庄三郎である。伊東深水川瀬巴水笠松紫浪といった日本画家による絵で新しい版画出版を行っていた渡邊庄三郎にとって、洋画家の吉田博を採用することは念願であった。渡邊版の版画を8点作った後、吉田博は独自の監修で木版画を作り始める。そのきっかけになったのは、関東大震災で被災した画家仲間(太平洋画会)救済のためにその作品800点を販売すべく渡米した時に、渡邊版木版画が好評であったこと、さらには幕末の粗悪な浮世絵でさえ高値で取引されているのを見たことであるらしい。海外の人に見せても恥ずかしくない、日本人ならではの木版画を自分の手で作ることを決意して帰国したと考えられている。

渡邊版では下絵師に過ぎないという不満もあっただろう、吉田博は「絵師こそが創作者。彫師・摺師はそこに従属する」という思いのもとに、自らが中心となって版画制作を行うシステムを作り上げていく。彫師・摺師を厳しく指導するためには、自らもできないといけないと、彫りや摺りを一から学び、職人顔負けのレベルになったと言う。信頼のおける彫師・摺師を専ら起用、つきっきりで厳しく注文を出し、妥協を許さなかった。時に職人には任せておけず、自らが彫る場合もあった。齢 49歳。洋画家であった吉田博は、以降、木版画制作に集中していく。

吉田博は同じ版木で、異なる摺りにより、刻一刻と変わっていく光を表現している。朝、午前、午後、霧、夕、夜を摺り分けた《帆船》の6連作はその代表と言える(写真はマスクケース。チケットホルダーにもなる)。

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また 70cm もの大きな作品を作ったのも吉田博である。紙が大きくなればなるほど、水分を含んだ紙の伸縮が大きくなり、「見当」と呼ばれる摺りを合わせる目印が合わなくなるはずだが、職人との二人三脚で、少しもズレのない大作を生み出している。

木版画技法を追求し続けた吉田博は、独創的なイノベーターであり、海外でも評価が高い。その原点は 1899年、23歳の時に決死の覚悟で渡米したことにある。1893年にフランス留学から帰国し、東京美術学校の教授となった黒田清輝とその一派に対して、「旧派」と呼ばれるようになった吉田博ら洋画家たちに、国費留学のチャンスはない。吉田博は片道分の旅費を借り受け、中川八郎と一緒に、自費での渡米を決行する。日本で吉田博の水彩画を買ってくれたチャールズ・フリーアの紹介状が唯一の頼りであった。フリーアは旅行中で会えなかったが、訪れたデトロイト美術館でグリフィス館長に水彩画を見せたところ、その素晴らしさに驚いた館長が二人の展覧会を開いてくれた。そこで水彩画が売れて、吉田博は現在の貨幣価値で数千万円に相当する $1,234 を手にする。さらには紹介してもらったボストン美術館で $2,785 を売り上げる。渡米でわずか 2ヶ月での「アメリカン・ドリーム」の実現、「デトロイトの奇跡」とも言えるできごとであった。

その後、吉田博は何度か渡米・渡欧して、インターナショナルな活躍を見せる。そして 1925年の渡米をきっかけに、木版画制作に打ち込んでいくことになる。今回の展覧会は、質・量ともに、吉田博の木版画の魅力を十二分に堪能することができる。

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「没後70年 吉田博展」公式図録

200点もの作品を収めた公式図録は、must-buy である。大きめの図版で、じっくり展覧会の作品を振り返ることができる。孫の吉田司氏が、博の生涯、そして数々の興味深いエピソードについて記している。この展覧会の図録やグッズは、毎日新聞社のサイトでも購入することができる。

www.mainichi.store

2017年に「生誕140年 吉田博展」が開催された時に購入した、以下の本も紹介しておく。

『吉田博作品集』は、吉田博の後半生の木版画だけでなく、前半生の洋画家としての油彩・水彩画も詳しく紹介している。アメリカでの活躍、因縁の黒田清輝(白馬会)への対抗、妻・吉田ふじをへの厳しい指導、自らが指揮する木版画制作のシステム確立についてのエピソードが興味深い。中でも、終戦直後、吉田博の家は進駐軍に接収されかけたが、博自らが抗議して撤回させた話は、常に反骨の人であったことを象徴している。その後、吉田博の家は進駐軍のサロンのようになり、博が木版画の技法を将校たちに講義したこと、マッカーサー夫人が版画を見に来たことなど、面白い話が紹介されている。

『吉田博全木版画集』は、吉田博のすべての木版画を掲載している。ただし図版が小さいものが多いのが残念だ。吉田博の長男・次男による個人的なエピソードの紹介、終戦後に吉田博の家を訪ねた米国人による当時の話などが興味深い。欧米人の視点から、なぜ吉田博の木版画が評価されるのか。まず変わりゆく自然を映し取った風景画としての魅力。それに加えて、写実的な西洋美術の技法を木版画の上で究極まで追求、西洋と日本の美術の「融合」により到達した独創的な表現が、その一つの答えと言えそうである。

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