冬の暖かい土曜日。ゴルフに行くか悩んだが、今回は展覧会巡りを優先した。東京国立博物館(トーハク)で、特別展「本阿弥光悦の大宇宙」と、建立900年 特別展「中尊寺金色堂」が開かれている。
こちらは本阿弥光悦(平成館)の方をまず観ようと開館直後の 9:30 過ぎに行ったのだが、中尊寺の方が人気が高く、本館の前には入場するのに長い列ができていた。考えてみれば、そうかもしれない。日本史で本阿弥光悦の名前よりも奥州藤原氏の中尊寺の方が印象に残っている気がする。中尊寺金色堂は、以前訪問したことがあることもあり、個人的には本阿弥光悦を最初に見る気になっていた。
本阿弥光悦は、俵屋宗達とともに、のちに「琳派」と呼ばれる流派の画家たちが私淑して、「琳派」の創始者として位置づけられるというのが、僕の乏しい理解であり、展覧会はその実像を知るよい機会だろうと考えていた。
Webサイト・チラシから、展覧会の趣旨を引用する:
本阿弥光悦(ほんあみこうえつ・1558~1637)は戦乱の時代に生き、さまざまな造形にかかわり、革新的で傑出した品々を生み出しました。それらは後代の日本文化に大きな影響を与えています。しかし光悦の世界は大宇宙(マクロコスモス)のごとく深淵で、その全体像をたどることは容易ではありません。
そこでこの展覧会では、光悦自身の手による書や作陶にあらわれた内面世界と、同じ信仰のもとに参集した工匠たちがかかわった蒔絵など同時代の社会状況に応答した造形とを結び付ける糸として、本阿弥家の信仰とともに、当時の法華町衆の社会についても注目します。造形の世界の最新研究と信仰のあり様とを照らしあわせることで、総合的に光悦を見通そうとするものです。
「一生涯へつらい候事至てきらひの人」で「異風者」(『本阿弥行状記』)といわれた光悦が、篤い信仰のもと確固とした精神に裏打ちされた美意識によって作り上げた諸芸の優品の数々は、現代において私たちの目にどのように映るのか。本展を通じて紹介いたします。
本阿弥光悦は、刀剣鑑定の家に生まれ、自身も優れた目利きであり、将軍家や大名たちに一目置かれた。その一方で、法華宗の信仰のもと、京都の町衆(裕福な商工業者)の一員として、ネットワークを築いていた。そして書の名人というだけでなく、漆芸や陶芸など、さまざまな造形に関わり、今でいうマルチ・クリエイター的な存在であったようだ。
Web サイトに下記のネットワーク図が掲載されている:
展覧会の冒頭に、国宝《舟橋蒔絵硯箱》が展示されている。チラシの左上のものだ。金の地に鉛の黒。膨張した形。文房具としての常識を逸脱した姿だったと言う。
書の世界は、僕にはよくわからないが、太いところと細いところをバランスよく書き分けていたり、最初は楷書で書かれているのに、だんだんと行書・草書と流麗になっていく巻物が多く、興味深かった。素人目にも味わいのある字だと感じた。
俵屋宗達が下絵を描き、そこに本阿弥光悦が和歌を「散らし書き」した《鶴下絵三十六歌仙和歌巻》は、なかなかの圧巻であった。飛び立った鶴が、しばらく空を舞い、また地上に戻ってくる。その下絵に呼応するように和歌が記されている。上のチラシの下部がそれである。
陶芸、なかでも光悦茶碗は、樂家2代・常慶とその子道入との交遊のなかで茶碗制作を行なったと言われている。
光悦芸術を代表する4つの作品の、8K 映像が写真撮影可能であった。