国立西洋美術館のリニューアルオープン記念展覧会「自然と人のダイアローグ」を見に行く。ドイツのフォルクヴァング美術館の協力を得て、西洋美術館(西美)の松方コレクションをはじめとする多くの所蔵作品を楽しむことができる。一部の作品を除いて、作品の写真撮影も可能となっている。
この展覧会に行く前に、事前に予習しておくとよい本がある。『国立西洋美術館 名画の見かた』である。西洋美術館の学芸員による所蔵品を使った美術史概説であり、作品鑑賞のツボがわかる。
この本によれば、ルネサンスの大きな発明は遠近法。その遠近法で設定される仮設の空間構造の中で、画家たちは創意を発揮してきた。平面性の中で立体感を感じさせるためにはどうするか?輪郭を明確にするのか、印象派のように彩色によって表現をするのか?
そしてセザンヌにより遠近法空間からの解放が行われた。視点を一つに固定するのではなく、いくつもの視点から見た対象を、画面の中で再構成することを行っている。そして印象派に学んだ色面を対比させることで、形の変化や奥行きを生み出している。
こういった大きな美術史の流れの中で、それぞれの作品の鑑賞のポイントが示されている。今回は展覧会で撮影したいくつかの作品について、この本のポイント解説を書き留めておこう(カッコ内はページ数を示している)。
展覧会の最初は、モネの風景画から始まる。光をあるがままに画面に表現しようとした印象派の代表的な作品である。太陽の光の当たり方によって、固有の色は変化する。そこで太陽の光を構成する7色を基本として、それぞれの色を混ぜず、小さな無数のタッチによって画面に塗ることで、光を表現しようとしたのが印象派の画家たちである(P.128)。
マネの《ブラン氏の肖像》に描かれた男性は、立体感が希薄である。陰影は施されているが、明暗のグラデーションがほとんどない。背景にも奥行きが感じられない。人物にハイライトが当たるよりも背景の小路が明るくなっている。マネが実際の見え方に忠実に従ったからである。戸外の強い光の下では、身体の陰影はなくなるし、空間の奥行きよりも強い光と影のコントラストが強調される。マネは視覚の印象を再現しているのである(P.42)。
ルネサンスの初め、平面において架空の空間をいかに描くかが画家たちの課題だったが、マネはこれに対して逆のアプローチをして平面としての絵画、「色彩に覆われた平坦な面」としての絵画とはどうあるべきかを問い直している(P.44)。
モネの《舟遊び》は、この傾向をさらに推し進めた作品である。この絵の人物は風景のなかの一つのモティーフという扱いであり、モネは人物も水面も、すべての光の生み出す色彩の戯れに変換して描いている(P.44)。
ドイツのロマン主義を主導した画家フリードリヒによる風景画は、自然を前にした人間の感動を伝えている。
フリードリヒの周囲にいたノルウェー人画家ダールや、新古典主義のシンケルの作品もまた、画中の人物や窓という媒体を通して、自然の風景への画家のまなざしを、見る者に追体験させる。
ゴーガンが《海辺に立つブルターニュの少女たち》を描いたのは、モネの《舟遊び》の 2年後に過ぎないが、その造形はまるで別の方向を向いている。モネの絵では人物の造形が光の中に解体するかのようだったが、この絵では輪郭線がはっきり引かれて造形が強調されている。一方、モネの絵では光が織りなす色彩を正確に描き取る努力がなされていたが、こちらは色彩が平面的に塗られている(P.48)。
ゴーガンは目に映った像をあるがままに描くのではなく、目に見えないけれど心に残る印象を描き出そうとした。この絵の場合、彼は子供たちに野生を感じたと言っている。ブルターニュはフランスの中でも近代化が遅れていたために、そう感じた。色彩も線も素朴で荒々しいものとすることで野生を表現している(P.50)。
素朴さに人間性の根源を求めた象徴主義者ゴーガンは、芸術の新しい力を、現代の文明から離れて南洋の自然に求めていく。
神を描く宗教画、英雄を描く物語画、普通の人間の肖像画、動物、物質(静物・風景)と、絵画のジャンルにはヒエラルキーが存在した(P.107)。物語画の背景として描かれていた風景の描写は、アルプス以北の地域で発達した。そして 17世紀のオランダで風景画はジャンルとして確立する(P.112)。そこではプロテスタントのカルヴァン派を信仰していたため、教会からの宗教画の注文は期待できなかった。物語と独立して、風景画がジャンルとして成立。ロイスダールは、風景を専門にした重要な画家である(P.116)。
19世紀、フランス社会に変化があり、貴族階級からブルジョワへ権力が移行する中、わかり易い主題が好まれるようになった。産業の発展の一方で労働者の悲惨な暮らしが社会問題化したことで、社会をあるがままに描くという写実主義を生む。都市化が進んだ結果、都市に住む人々が田園風景に憧れる新たなまなざしを涵養した。こうした状況のもと、風景画の需要が高まった(P.124)。
クールベの《波》はまさにそうした態度を物語る作品である。この絵は波以外の何ものでもない。画家は目に見える波をそのまま描き取ろうとしている。一瞬を切り取ることによって、画家が波に感じた生命感が伝わってくる(P.125)。
クールベは「波」をよく描いた写実主義の画家である(参考:「クールベと海」展)。今回の展覧会では、フォルクヴァング美術館と西洋美術館の松方コレクションの作品が並べて展示されている。
画家の感覚に重きを置き、目に見えるがままに外界を描く方向をさらに推し進めて、光をあるがままに画面に表現しようとしたのが、印象派の画家たちである(P.126)。印象派は、太陽の光が固有色の色調も変化させることに気づき、光の当たり方によっては、地面は赤にもなれば青みがかった色にもなる。そこで太陽を構成する7色を基本として、それぞれの色をなるべく混ぜずに、小さな無数のタッチによって画面に塗ることで、画面に光を表現しようとした(P.128)。
モネの《舟遊び》と同じように、《陽を浴びるポプラ並木》も光の効果を追求した作品である。
《睡蓮》も同様で、水面の表情を丹念に描き取っている。立体感のほぼ失われた画面は、光の追求の極致になっている(P.129)。
睡蓮の絵に端的に現れているように、光を写し取る努力を突き詰めた結果、絵は光の記録と化してしまった。新たな感性を発散させる一方で、絵がかつて所有していた画面の構築とか、ものの実在感が失われてしまったことは確かである。この実在感のなさを補うことが、次の大きな課題になった(P.129 - P.130)。
印象派を乗り越える動きとして、セザンヌの試みがある。印象派の彩色法を用いて、自分の目に忠実に描きつつも、印象派の失った秩序や構成を取り戻そうとした(P.130)。
印象派の明るい外光表現とともに、より「構築的な筆触」への萌芽が見られるセザンヌの作品が以下である:
《葉を落としたジャ・ド・ブッファンの木々》は、戸外の風景をじかに描いている点や、短いタッチによってそれぞれの色をカンヴァスに置く点などは、モネの作品と共通しているが、モネよりも画面ががっしり構成されている。垂直線(木)と水平線が強調されている。一方、草の色の違いや石垣、丘や山の連なりによって、水平線が幾度も暗示され、画面に奥行きが表されている(P.130)。
右端から左に向かう枝は奇妙に長く表され、その延長線が中央左の木の枝とつながるかのようである。その間にある空は、両者の枝を結ぶ架空の線が塗り残しとして示されている。こうしてセザンヌは画面の中に、確固とした構成を与えているのである(P.132)。
セザンヌの絵は印象派同様、タッチの集積で描かれており、少し離れた場所から見るべきである。近づいてみると画家の近くの過程と試行錯誤を読み取ることができるが、絵から離れて見ると、空間の構成をよりはっきり見ることができる(P.132)。
セザンヌの絵を見る時に、ぜひ行って欲しいことがある。それは絵を斜めに見ることである。おそらくセザンヌは絵を描く時、カンヴァスからやや離れて、左右に歩き回っていた。
この絵を右から見た時に、絵の中の遠近感とも相まって、右下の部分が一番手前に見える。そうするとその部分にある最前景の暗い草地やクリーム色の色面が、左上方向に存在する色面やタッチと関連づけられる。こうして奥行きや画面の構成が強調される(P.133)。
この絵を左から見た場合、草地の暗い色で示される水平線が、画面左下から右上にかけて繰り返されるために、視線は画面左下から右上に誘導されて、画面の奥行きと構造を強調する(P.133)。
セザンヌのように多視点から見た対象を画面の中で再構成するのは、ルネサンス以来の一つの視点を想定する遠近法から逸脱している。ものを見る時にわれわれは視線を動かし、視線が瞬間的に把握したものを脳が総合するというプロセスを踏んでいる。セザンヌは遠近法の矛盾に気づき、新しい空間を作っている(P.134)。
印象派の風景画を乗り越えようとした画家は他にもいる。ゴッホもそうであり、より主観的な印象を重視した。彼は高ぶる感情をひと刷けひと刷けの色彩に託した。主観に重きを置くがゆえに、形をゆがめて表現することをいとわなかった。セザンヌとは違うプロセスをたどりつつ、遠近法を乗り越える作品を創造した(P.136)。
セザンヌが新たな空間のあり方を模索し、ゴッホが自己の情念を描き出し、ゴーガンは心の内にある思想を主観的に表現したこの頃、シニャックはスーラとともに、印象派の「色彩分割」を発展させ、科学的な分析に基づく「点描」を確立した(P.138)。
風景画や静物画と同様、風俗画というジャンルもそもそもは存在しなかった。15世紀後半から 16世紀にかけて、風俗の主題がとりわけ描かれたのはネーデルラントだった。ブリューゲル(父)と同名の長男による父の絵のコピー《鳥罠のある冬景色》が、国立西洋美術館には所蔵されている。一見すると当時の生活を描き留めた風景画のようだが、氷にぽっかり開いた穴や鳥を捕らえるための罠など、日常に潜む危険に警鐘を鳴らし、あるいは運命のはかなさを伝えている(P.154 - P.156)。
19世紀にはジャンル分けがあまり意味をなさなくなってきた。ルノワールやクールベの絵にしても、風俗を描き出すと言うよりは、それを題材にして「いかに描くか」を重視している。デンマークのハンマースホイの室内画はその最たるものである(P.168)。
《ピアノを弾く妻イーダのいる室内》は、日常のひとこまが切り取られているが、非日常的な雰囲気のある作品である。室内は心の通った空間であるはずが、この絵からは完全に排除されている。風俗画という伝統的な形式を用いながら、それとは異質なものになっているのがこの絵の魅力である。遠近法にのっとった空間であるのに、何とも言えない異質な空気を感じるところに、この絵の現代性がある(P.167 - P.168)。
先日見に行ったマルタンの絵も所蔵されていた:
企画展と常設展を堪能すると、2つの美術館を見てまわった気がしてお腹も空く。「カフェ すいれん」でランチ。ル・コルビジェが発案した「無限成長建築」を表現した「ル・コルビジェプレート」をいただく。