Muranaga's View

読書、美術鑑賞、ときにビジネスの日々

すべてが国宝!美しい仏像に間近で会える 建立900年 特別展「中尊寺金色堂」(東京国立博物館)

特別展「本阿弥光悦の大宇宙」を見た後、早めの昼食を取り、建立900年 特別展「中尊寺金色堂」に向かう。11:30 過ぎ。2時間前より若干行列は短くなっており、10数分並んで展覧会場に入ることができた。当然、中はかなりの混雑である。

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奥州藤原氏、清衡が 900年前に建立した中尊寺金色堂は、極楽浄土を表わしている。金堂内には3つの須弥壇が設けられており、中央壇内部の棺に眠っているとされるのは、藤原清衡。この中央壇に安置される国宝の仏像 11体すべてを展示している。

京の一流仏師によるものと思われる像は、どれも端正で美しい。それを間近に見られる機会は、もうないかもしれない。

金色堂の装飾する華鬘(けまん)、金銀の泥字で一行おきに記された中尊寺教。これらもすべて国宝となっている。

8K の 3次元CG による金堂およびその内部の映像は、幅 7m の大型スクリーンにより原寸大で表示される。貴重な文化財の記録により、まるでそこに行ったかのような体験ができる。

縮尺 1/5 の金色堂模型のみが、写真撮影可能となっていた。昭和の大修理の際に得られたデータに基づいて製作されている。

本阿弥光悦よりも、こちらの展覧会が人気があるのもむべなるかな。

やっと長谷川等伯《松林図屏風》に会えた(東京国立博物館)

本阿弥光悦中尊寺金色堂の特別展を見た後は、トーハクの常設展へ。

国宝室にて、ようやく長谷川等伯《松林図屏風》に会うことができた。2022年の「国宝 東京国立博物館のすべて」の時には、展示替えで見ることができなかったのだ。

長谷川等伯《松林図屏風》(安土桃山時代、16世紀)

さまざまな筆を使って、迷いなく一気に描いている。墨のグラデーションによって、光の強弱を表わして、霧に包まれた松林を生み出している。

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特別展「本阿弥光悦の大宇宙」でその多才を知る(東京国立博物館)

冬の暖かい土曜日。ゴルフに行くか悩んだが、今回は展覧会巡りを優先した。東京国立博物館(トーハク)で、特別展「本阿弥光悦の大宇宙」と、建立900年 特別展「中尊寺金色堂」が開かれている。

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こちらは本阿弥光悦(平成館)の方をまず観ようと開館直後の 9:30 過ぎに行ったのだが、中尊寺の方が人気が高く、本館の前には入場するのに長い列ができていた。考えてみれば、そうかもしれない。日本史で本阿弥光悦の名前よりも奥州藤原氏中尊寺の方が印象に残っている気がする。中尊寺金色堂は、以前訪問したことがあることもあり、個人的には本阿弥光悦を最初に見る気になっていた。

本阿弥光悦は、俵屋宗達とともに、のちに「琳派」と呼ばれる流派の画家たちが私淑して、「琳派」の創始者として位置づけられるというのが、僕の乏しい理解であり、展覧会はその実像を知るよい機会だろうと考えていた。

Webサイト・チラシから、展覧会の趣旨を引用する:

本阿弥光悦(ほんあみこうえつ・1558~1637)は戦乱の時代に生き、さまざまな造形にかかわり、革新的で傑出した品々を生み出しました。それらは後代の日本文化に大きな影響を与えています。しかし光悦の世界は大宇宙(マクロコスモス)のごとく深淵で、その全体像をたどることは容易ではありません。

そこでこの展覧会では、光悦自身の手による書や作陶にあらわれた内面世界と、同じ信仰のもとに参集した工匠たちがかかわった蒔絵など同時代の社会状況に応答した造形とを結び付ける糸として、本阿弥家の信仰とともに、当時の法華町衆の社会についても注目します。造形の世界の最新研究と信仰のあり様とを照らしあわせることで、総合的に光悦を見通そうとするものです。

「一生涯へつらい候事至てきらひの人」で「異風者」(『本阿弥行状記』)といわれた光悦が、篤い信仰のもと確固とした精神に裏打ちされた美意識によって作り上げた諸芸の優品の数々は、現代において私たちの目にどのように映るのか。本展を通じて紹介いたします。

本阿弥光悦は、刀剣鑑定の家に生まれ、自身も優れた目利きであり、将軍家や大名たちに一目置かれた。その一方で、法華宗の信仰のもと、京都の町衆(裕福な商工業者)の一員として、ネットワークを築いていた。そして書の名人というだけでなく、漆芸や陶芸など、さまざまな造形に関わり、今でいうマルチ・クリエイター的な存在であったようだ。

Web サイトに下記のネットワーク図が掲載されている:

展覧会の冒頭に、国宝《舟橋蒔絵硯箱》が展示されている。チラシの左上のものだ。金の地に鉛の黒。膨張した形。文房具としての常識を逸脱した姿だったと言う。

書の世界は、僕にはよくわからないが、太いところと細いところをバランスよく書き分けていたり、最初は楷書で書かれているのに、だんだんと行書・草書と流麗になっていく巻物が多く、興味深かった。素人目にも味わいのある字だと感じた。

俵屋宗達が下絵を描き、そこに本阿弥光悦が和歌を「散らし書き」した《鶴下絵三十六歌仙和歌巻》は、なかなかの圧巻であった。飛び立った鶴が、しばらく空を舞い、また地上に戻ってくる。その下絵に呼応するように和歌が記されている。上のチラシの下部がそれである。

陶芸、なかでも光悦茶碗は、樂家2代・常慶とその子道入との交遊のなかで茶碗制作を行なったと言われている。

光悦芸術を代表する4つの作品の、8K 映像が写真撮影可能であった。

  • 刀 金象嵌銘 江磨上 光徳(花押)(名物 北野江)
  • 国宝 舟橋蒔絵 硯箱
  • 蓮華絵 百人一首和歌巻断簡
  • 黒楽茶碗 銘 村雲

音声ガイドを担当した中谷美紀さんのトークセッションの映像が YouTube に上がっている。


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帝国ホテル、浮世絵…。巨匠と日本のつながりを知る「フランク・ロイド・ライト 世界を結ぶ建築」展(パナソニック汐留美術館)

国立西洋美術館キュビスムを学び、19世紀のアカデミーの絵画を見た後は、パナソニック留美術館で開催されている「フランク・ロイド・ライト 世界を結ぶ建築」展に出かける。午後から行ったためだろうか、かなりの混雑で、会場に入るまでに 20組ほどの列ができていた。

panasonic.co.jp

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展覧会の概要を Web サイトから引用する:

アメリカ近代建築の巨匠フランク・ロイド・ライト(1867–1959)。「カウフマン邸(落水荘)」や「グッゲンハイム美術館」で知られるライトは、「帝国ホテル二代目本館(現在は博物館明治村に一部移築保存)」や「自由学園」を手がけ、熱烈な浮世絵愛好家の顔も持つ、日本と深い縁で結ばれた建築家です。

2012年にフランク・ロイド・ライト財団から図面をはじめとする5万点を超える資料がニューヨーク近代美術館コロンビア大学エイヴリー建築美術図書館に移管され、建築はもちろんのこと、芸術、デザイン、著述、造園、教育、技術革新、都市計画に至るライトの広範な視野と知性を明らかにすべく調査研究が続けられてきました。こうした研究成果をふまえ、本展はケン・タダシ・オオシマ氏(ワシントン大学教授)とジェニファー・グレイ氏(フランク・ロイド・ライト財団副代表、タリアセン・インスティテュート・ディレクター)を迎えて日米共同でキュレーションを行ない、帝国ホテルを基軸に、多様な文化と交流し常に先駆的な活動を展開したライトの姿を明らかにします。

精緻で華麗なドローイングの数々をお楽しみください。世界を横断して活躍したライトのグローバルな視点は、21世紀の今日的な課題と共鳴し、来るべき未来への提言となるはずです。

シカゴ郊外のフランク・ロイド・ライト自邸とスタジオ(1889-1911年、公式図録 P.92-93)

僕がフランク・ロイド・ライトの名前を知ったのは、30年前。ピッツバーグにあるカーネギーメロン大学を留学先に選んだ時である。ピッツバーグからの観光ポイントとして、同じペンシルバニア州にあるエドガー・カウフマン邸「落水荘」がガイドブックに紹介されていたのである。

当時は建築にあまり興味がなかったこともあって、車でわずか 1時間半の「落水荘」を訪れることはなかった。貴重な機会を目の前にしながら逃してしまったことを、今となってはとても後悔している。

エドガー・カウフマン邸「落水荘」(公式図録 P.74 より)

fallingwater.org

今回の展覧会は「帝国ホテル二代目本館 100周年」と冠がつけられているように、ライトと日本との関わりも大きく取り上げられている。

まず驚いたのは、ライトの浮世絵に対する熱烈な関心である。1905年の 7週間におよぶ日本旅行を通して、日本の風景や伝統的な建築に関心を持った。そして帰国にあたり、歌川広重の浮世絵を数百枚、シカゴに持ち帰り、翌1906年 3月にシカゴ美術館でそれを展示、日本の浮世絵について最初のエッセイも出版、施主たちに自邸に浮世絵を飾ることを熱心に勧めたという。

浮世絵的資格と建築ドローイング(公式図録 P.53 より)

帝国ホテル二代目本館は、1913年から設計が始まり、1923年8月に完成した。その間、ライトは何度も日本を訪れている。完成直後に関東大震災で被害を受け、別館は復旧困難で取り壊しとなった。その後、三代目本館に建て直されるにあたり、本館ロビーは明治村に移築された。僕も訪れたことがある。フランク・ロイド・ライトの設計だったのだと認識を改めた次第。

帝国ホテル二代目本館(公式図録 P.121 より)

明治村に移築された二代目本館玄関(左)、帝国ホテル四代目新本館イメージパース(右)(公式図録 P.123 より)

展覧会では、ユーソニアン住宅の原寸モデルが展示されている。Web サイトからその説明を引用する:

ユーソニアン住宅とは、ライトが1930年代後半から取り組んだ、一般的なアメリカ国民が住むことのできる安価で美しい住宅です。フランク・ロイド・ライトの建築教育の実践の場であるタリアセンでかつて学んだ経験を持つ磯矢亮介氏にご協力いただき、初期の木造のユーソニアン住宅であるベアード邸(マサチューセッツ州アマースト、1940年)をお手本とした原寸モデルで、玄関から居間の空間を体験いただきます。

ユーソニアン住宅の原寸モデル展示

今回の展覧会を復習するために、公式図録(カタログ)を購入した。この本は市販されており、Amazon でも購入することができる。

展覧会公式図録

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キュビスムとは対照的!「もうひとつの19世紀 ブーグロー、ミレイとアカデミーの画家たち」展(国立西洋美術館)

「キュビスム展」を見た後は、西洋美術館の「Cafe すいれん」で中庭を眺めながら、「トリュフ香る茸のアーリオ・オーリオ」のランチ。藤田真央のエッセイ『指先から旅をする』をちょうど読んだばかりで、そのアーリオ・オーリオ好きがわかっていたので、つい頼んでしまった。

そして西洋美術館の常設展に足を運ぶ。企画展として、「もうひとつの19世紀 ブーグロー、ミレイとアカデミーの画家たち」展が開催されている。

企画展の Webサイトチラシ(PDF)から、その概要を引用する:

19世紀後半のフランスおよびイギリス美術と聞いて、みなさんが思い描くのは一体どんな絵画でしょうか。フランスにおけるレアリスムや印象派、あるいはイギリスのラファエル前派や唯美主義による作品が浮かんだ方も少なくないでしょう。しかし、今日エポックメーカーとして俎上にあがる芸術運動と画家たちの背後には、常にアカデミー画家たちがおり、彼らこそが当時の画壇の主流を占め、美術における規範を体現していました。

かれらは、それぞれの国において最も権威ある美術教育の殿堂であったアカデミー――1648年、フランスで創立された王立絵画彫刻アカデミーと1768年にイギリスで誕生したロイヤル・アカデミー・オブ・アーツ――に属し、古典主義的な芸術様式を遵守した画家たちです。

しかしアカデミーの権威と伝統は、社会の急速な近代化によって揺らぎ、19世紀後半になるとアカデミスムは衰退の危機をむかえます。そんななか、アカデミーで地歩を固めた画家たちは時代の変容や新たな画派の登場に決して無関心ではありませんでした。むしろ変化に富んだ時代において、需要に応じて主題や様式、媒体を変容し制作を行いながら、アカデミーの支柱としてその伝統と歴史を後世に継承しようと努めたのです。本小企画展では、ウィリアム・アドルフ・ブーグロー(1825-1905)やジョン・エヴァレット・ミレイ(1829-1896)をはじめとする両国のアカデミー画家たちのキャリアを辿り、多様化した主題やモティーフ、モデルに焦点をあてることで、その柔軟かつ戦略的な姿勢と彼らが率いた「もうひとつの19世紀」を浮き彫りにします。

以下、展覧会に掲示されている説明を要約しつつ、僕の感想を交えながら、ブーグロー、ミレイ、ラファエル・コランといった画家たちの作品を紹介する。

1. 多様化する主題と活動 ー 古代と近代のあわいで

19世紀後半、フランスとイギリスのアカデミーの権威は揺らぎ、歴史画を頂点とした絵画ジャンルにおける優劣がなくなりつつあった。アカデミー画家たちもその需要を意識しながら、多種多様な作品を生み出していく。

古代への憧憬を宿すブーグローによる《音楽》、《クピドの懲罰》、《武器の返却を懇願するクピド》は、サロン(官展)への出品ではなく、個人邸宅の装飾として制作された。

ブーグロー《音楽》1855-56年頃

ブーグロー《クピドの懲罰》1855-56年頃

ブーグロー《武器の返却を懇願するクピド》1855-56年頃

《純潔》は 1893年のサロンに出品された。愛くるしい子どもと若い女性というモティーフは、《姉弟》と似ており、いわゆる「ファンタジー・ペインティング」に属するものである。

ブーグロー《純潔》1893年

コランの《詩》と《楽》は、個人の邸宅を飾るために製作された。《詩》に描かれる女性は同時代、《楽》の女性像は古代のニンフやミューズの姿を思わせる。アカデミックな手法にとらわれず、明るい色彩でやや粗い筆触で背景を描いている。

コラン《詩》1899年

コラン《楽》1899年

僕はブーグローという名前を知らなかったのだが、コランと言えば、黒田清輝が留学時の先生にあたる。コランの明るい色彩は黒田清輝の《湖畔にて》に通じる。黒田は当時の新たな芸術運動ではなく、伝統的なアカデミーの絵画を日本に持ち帰り、「洋画」の「新派」として日本画壇の中でも自らを権威づけた。ある意味、アカデミーの「システム」も日本に持ち帰ったと言えるのかもしれない。

2. 肖像画 ー 私的で親密な記憶

肖像画は、確かな収入源として多くの画家が携わった分野である。従来はモデルとなる人物の社会的立場や野心を広める手段として用いられてきた肖像画であるが、ここに展示されているのは主に作家とモデルの親密さを示す、私的な肖像画である。印象派の画家たちが近しい人々をモデルにしたが、アカデミーの作家も同様であった。

ブーグロー《ガブリエル・コットの肖像》1890年

この肖像画のモデルは、ブーグローの弟子であり友人である画家コットの娘ガブリエルである。こちらに向けられた優しいまなざしと笑みが印象的で、画家とモデルとの親密な関係性がうかがえる。ガブリエルの結婚の際に、母親への贈り物として制作された。

3. ブーグローとミレイ ー 子どもへのまなざし

フランスのアカデミーの重鎮であったブーグローは、ニンフやクピドをモティーフとした「ファンタジー・ペインティング」と、農村や山間などを舞台に現実の人々をモデルに描いた作品で、子どもたちを描いている。ブーグローは 1870年代初頭より、新古典主義や宗教的な主題から離れ、子ども時代をテーマに普遍的な純真さを表わした牧歌的な作品を手がけるようになる。画廊と専売契約を結び、《少女》のような商業的な人物画も制作した。

ブーグロー《少女》1878年

姉弟》は前述したように、「ファンタジー・ペインティング」として位置づけられる。

ブーグロー《姉弟1878年

イギリス・アカデミーの重鎮であったミレイの場合、肖像画と「ファンシー・ピクチャー(空想絵画)」で、愛らしい子どもたちを描いている。ファンシー・ピクチャーは、18世紀後半に流行した風俗画の一種で、想像を交えながら子どもや女性のいる日常の情景を描いた。ジョシュア・レノルズやトマス・ゲインズバラの作品が代表的である。

ミレイはおよそ一世紀ぶりにこの分野を再興したが、子どもたちの姿を理想化するのではなく、鋭い観察とユーモアをもって現実の「子どもらしさ」を取り入れ、物語要素を重視した。《あひるの子》では、不安げな子どもの表情やアンデルセンの童話を想起させるあひるの描写に、ミレイ特有の要素が見て取れる。

ミレイ《あひるの子》1889年

1850年代半ばより、ミレイはラファエル前派から距離を置き、アカデミーでの地歩を固めた。その方向転換については、今日に至るまで賛否の声があるものの、当時の画壇においては尊敬の的であった。

ブーグローは知らなかったが、ミレイの名前や作品は知っている。ロセッティなどとともに、ラファエル前派だと思っていたミレイが、実はアカデミーの重鎮だったというのは驚きであった。

ファンシー・ピクチャーについては、佐藤直樹『東京藝大で教わる西洋美術の見かた』に解説があり、さらに一つの章を割いて、ミレイのファンシー・ピクチャーを説明している。それによれば、ミレイがラファエル前派として、アカデミー初代校長であるレノルズを批判していたのに、後年、臆面もなくそれに倣うことでアカデミーでの立場を確立をめざしたのは、ミレイの政治的野心の表れとしている。

なかなか興味深い企画展であった。印象派、新印象派ナビ派フォーヴィズムキュビスム…。大きくアートのあり方が変わる中で、伝統的な規範であるアカデミーはどうしていたのか?

確かにモティーフや手法は多様化しているが、その根幹はできるだけ現実を写実的に描こうとする伝統的な絵画のあり方であろう。主観的に現実を分解して画面を構成していく「キュビスム」の展覧会を見た後だけに、そのことが非常に対照的に感じられ、面白かった。

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「キュビスム展―美の革命」は、新たな学びの機会(国立西洋美術館)

閉幕まで 2週間。ようやく「キュビスム展—美の革命」に出かける。現代美術が苦手な僕にとって、その先駆けとなるキュビスムは「わざわざ見に行かなくてもいいかな」という位置づけの展覧会だったのだ。そもそもキュビズム(「ス」ではなく「ズ」)だと誤解していたくらい。

ただ食わず嫌いはよくない。あまり関心がなくても、行ってみて新たな学びがあり、興味が出てくることも多い。さらに NHK 日曜美術館三浦篤先生の解説や、今回の展覧会を企画・監修した田中正之先生の YouTube の講座を聴いて、キュビスムを学ぶまたとない機会であると思い、重い腰を上げて国立西洋美術館に行くことにした。何よりパリまで行かずとも、ポンピドゥーセンターにある近代美術館の 50点もの作品が見られるのだから。

cubisme.exhn.jp


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展覧会のサイトから概要を引用する:

20世紀初頭、パブロ・ピカソジョルジュ・ブラックという2人の芸術家によって生み出されたキュビスムは、西洋美術の歴史にかつてないほど大きな変革をもたらしました。その名称は、1908年にブラックの風景画が「キューブ(立方体)」と評されたことに由来します。伝統的な遠近法や陰影法による空間表現から脱却し、幾何学的な形によって画面を構成する試みは、絵画を現実の再現とみなすルネサンス以来の常識から画家たちを解放しました。キュビスムが開いた視覚表現の新たな可能性は、パリに集う若い芸術家たちに衝撃を与え、瞬く間に世界中に広まり、それ以後の芸術の多様な展開に決定的な影響を及ぼしています。

この度、パリのポンピドゥーセンターからキュビスムの重要作品が多数来日し、そのうち50点以上が日本初出品です。主要作家約40人による絵画や彫刻を中心とした約140点を通して、20世紀美術の真の出発点となったキュビスムの豊かな展開とダイナミズムを紹介します。日本でキュビスムを正面から取り上げる展覧会はおよそ50年ぶりです。

展覧会の構成は以下の通り:

本展は全14章で構成されます。 前半は、ポール・セザンヌアンリ・ルソーの絵画、アフリカの彫刻などキュビスムの多様な源泉を探る「キュビスムの起源」から始まり、ピカソとブラックが2人きりの緊密な共同作業によって全く新しい絵画を発明する軌跡を追います。

後半では、その後のキュビスムの展開に重要な役割を果たすフェルナン・レジェ、フアン・グリス、ロベールとソニア・ドローネーら主要画家たち、キュビスムを吸収しながら独自の作風を打ち立てていくマルク・シャガールら国際色豊かで個性的な芸術家たちを紹介します。

また、第一次世界大戦という未曽有の惨事を経て、キュビスムを乗り超えようとするル・コルビュジエらのピュリスム(純粋主義)や、合理性を重視する機械美学が台頭してくるまでを展覧します。

そしてサイトでは、主な作品とその解説が見られるようになっている。

ポンピドゥセンターや西洋美術館所蔵の作品は、基本的に写真撮影 OK だったので、自分が気に入った作品を取り交ぜながら紹介していこう。展覧会の各章の入口に掲げられた解説を、要約・引用する。

1. キュビスム以前 その源泉

セザンヌ、ゴーガン、ルソーの絵と、アフリカの仮面や彫像が展示されている。

セザンヌは、幾何学的な形態による画面構成や、多視点を導入して遠近法を解体した。絵画のあり方を、写実的に模倣するものから構築的なものへと変えた。ゴーガンは西洋以外の文化圏にまなざしを向け、「プリミティヴ」と称される素朴な造形をもたらした。ルソーは正規の美術教育を受けていない、日曜画家ならではの自由な表現を行った。

当時、植民地化が進められたアフリカやオセアニアから多様な造形物がヨーロッパにもたらされていた。ピカソやドラン、ブラックらはそうしたものを収集し、西洋美術とは異なる表現のあり方を自分の作品に取り入れていった。

2. 「プリミティヴィスム」

アフリカやオセアニアの美術・造形の表現は「プリミティヴィスム」と呼ばれてきた。当時の西洋人からは「原始的(プリミティヴ)」と考えられていたからだが、これも西洋の美的価値観によるものである。本来の文化的な意味が理解されていたわけではないが、前衛の芸術家にとって、西洋の伝統的な規範に挑戦する拠りどころとなった。

1907年にピカソは《アヴィニヨンの娘たち》を大きく描き直す。それを見たブラックは、その過激さに驚き、ピカソへの応答として《大きな裸婦》を描いた。こうして始まった二人の画家の芸術的な対話が、キュビスムという大きな革命を引き起こす。

ピカソ《女性の胸像》は、《アヴィニヨンの娘たち》の習作の一つ。

ピカソ《女性の胸像》1907年6-7月

ブラック《大きな裸婦》1907年冬-1908年6月

3. キュビスムの誕生 セザンヌに導かれて

ブラックは、1906年から 1910年まで、セザンヌが制作した地レスタックに 4回滞在、セザンヌに応答する作品を描く。1908年11月にカーンヴァイラー画廊で開かれたブラックの個展で、その作品が展示され、その展覧会評で「ブラックは形態を軽んじていて、景観も人物も家々もすべてを、幾何学的図式や、キューブ(立方体)に還元してしまう」と評された。これがキュビスムという名称の起源になる。

ブラック《レスタックの高架橋》1908年初頭

ブラックは、橋や家々を、立方体をはじめとする幾何学的な形態に還元し、それらを遠近法を無視した浅い空間に積み重ねる、新たな表現に到達する。

4. ブラックとピカソ ザイルで結ばれた二人(1909-1914)

ドイツ出身の画商カーンヴァイラーは、1907年に 23歳でパリに移住、画廊を開いた。まもなくピカソと知り合い、1908年11月にブラックの個展を開催すると、のちに二人と専属契約を結んで、その制作を支えた。ピカソとブラックの作品をパリで唯一展示していたカーンヴァイラー画廊は、キュビスム震源地的存在となる。

1908年頃からブラックとピカソは、互いのアトリエを訪ねるほど交流を深め、ブラックは「ザイルで結ばれた登山者のようだった」と当時の二人の関係を改装している。

2人の造形的実験は、1909年夏には「分析的キュビスム」の作品にいたる。対象物はいくつもの部分に分解され、無数の霧湖面によって構成されたようなモノクロームの画面が登場した。

ピカソ《肘掛け椅子に座る女性》1910年

1910年半ば以降は、モティーフの識別が困難なほどに作品は抽象度の度合いを増す。絵画は何かを写実的に描写するのではなく、自律的なイメージが構成される場となった。キュビスムは抽象的で難解なものになるが、ピカソとブラックは抽象絵画へは向かわず、絵画と現実との関係を問い続ける。

ブラック《ヴァイオリンのある静物》1911年11月

ブラック《円卓》1911年秋

1912年になると「総合的キュビスム」の段階を迎え、コラージュや新聞や壁紙を貼り付けるパピエ・コレ(貼られた紙)といった新たな技法が試みられた。

ブラック《果物皿とトランプ》1913年初頭

ブラックが自作のパピエ・コレ作品を絵筆で真似た油彩画で、壁紙の木目模様は、塗装業者用のヘラで引っ搔いて再現され、そこに果物やトランプ、文字などが配置された空間が広がっている。

5. フェルナン・レジェとフアン・グリス

ブラックとピカソが創始したキュビスムは、若い芸術家の間に瞬く間に広がり、多くの追随者を生んだ。なかでもレジェとグリスは、カーンヴァイラーによってキュビスムの発展に欠かせない芸術家とみなされる。

レジェは、1910年に《縫い物をする女性》のような最初のキュビスム絵画を描く。ドローネーとともに豊かな色彩表現を追求するとともに「コントラスト(対照・対比)」を自らの制作の原理とし、それは抽象絵画へも発展した。

レジェ《縫い物をする女性》1910年

レジェ《形態のコントラスト》1913年

スペイン出身のグリスは、同郷のピカソが住む「洗濯船」を拠点として、挿絵画家として活動後、1911年より本格的に油彩座を描くようになる。《本》に見られるように、彼もまたセザンヌから学ぶことから始めた。そして1912年にキュビスムの画家としてデビューする。ピカソとブラックの発明を吸収し、明晰な構図と異なる質感の巧みな描写、鮮やかな色彩を特徴とする独自のキュビスムを展開した。

グリス《本》1911年

グリス《ヴァイオリンとグラス》1913年

《ヴァイオリンとグラス》では、いずれもカンヴァス自体がテーブルに見立てられ、断片化されたグラスや楽譜、楽器などのモティーフが折り重なっている。

6. サロンにおけるキュビスム

ピカソとブラックの影響を受けた若いキュビストたちは、主にサロン・デ・ザンデバンタン(独立派のサロン)やサロン・ドートンヌ(秋のサロン)といった大規模な展覧会で作品を発表したため、今では「サロン・キュビスト」と呼ばれている。彼らはキュビスムを理論化し、グレーズとメッツァンジェは『「キュビスム」について』という著書を 1912年に発表する。

同年にはキュビスムのグループ展である「セクション・ドール(黄金分割)」展も開催され、グレーズの《収穫物の脱穀》などが出品された。キュビスムという新しい造形によって、農作業という伝統的主題と現代性を融和させることにより、キュビスムをフランス美術の伝統の延長線上に位置づけようとしたグレーズの主張が反映されている。

グレーズ《収穫物の脱穀》1912年

レジェは 1911年以降、「サロン・キュビスム」を代表する画家として活躍し、円筒形(チューブ)を多用とした独自の表現によってチュビストとも呼ばれた。

ドローネーの《パリ市》は、1912年のサロン・デ・ザンデバンダンに出品された「サロン・キュビスム」の代表的な作品である。画面の左右にはパリの町とエッフェル塔、中央には古典的な三美神を想起させる裸婦が描かれている。左側の船と橋のモティーフはルソーの自画像から取られたもの。

ロベール・ドローネー《パリ市》1910-1912年

7. 同時主義とオルフィスム ロベール・ドローネーとソニア・ドローネー

アポリネールはロベール・ドローネーを「オルフェウス的(詩的)キュビスム」と呼び、「オリフィスム」は色彩によって構成された「純粋な」絵画であると捉えられた。

ロベール・ドローネー自身は、妻ソニアとともに「同時主義」という独自の概念を打ち立てる。色彩同士の対比的効果を探求するだけでなく、異質な要素を同一画面に統合する方法でもあり、《パリ市》では古代の三美神と現代のエッフェル塔など、多様な要素が一つにまとめられている。

「同時主義」は空間や動きを示す原理でもあり、ソニアがダンスホールの情景を描いた《バル・ビュリエ》によく示されている。

ソニア・ドローネー《バル・ビュリエ》1913年

8. デュシャン兄弟とピュトー・グループ

画家で版画家のジャック・ヴィヨン(本名ガストン・デュシャン)と彫刻家レイモン・デュシャン=ヴィヨンの兄弟がパリ郊外のピュトーに構えたアトリエには、末弟のマルセル・デュシャンやクプカ、ピカピアといったサロン・キュビストたちが、1911年頃から毎週日曜日に集い、「ピュトー・グループ」と呼ばれた。

(左から)マルセル・デュシャン、ジャック=ヴィヨン、レイモン・デュシャン=ヴィヨン、ピュトーのアトリエの庭にて、1910-1915年頃

彼らを中心に組織されたのが、1912年開催の展覧会「セクション・ドール(黄金分割)」である。黄金比や非ユークリッド幾何学といった数学や科学をキュビスムと理論的に結び付けようとした。たとえばクプカの《挨拶》では、複数の時間が同一画面内に描かれることで動きが示されている。

クプカ《挨拶》1912年

レイモン・デュシャン=ヴィヨン《座る女性》1914年

9. メゾン・キュビスト

1912年のサロン・ドートンヌには、「メゾン・キュビスト(キュビスムの家)」が展示され、キュビスムを建築や室内宋勅へと展開する試みがなされる。

会場にはデュシャン=ヴィヨンのデザインによる 2階建ての建築模型が展示された。

レイモン・デュシャン=ヴィヨン「メゾン・キュビスト」建築正面(模型)、1912年

10. 芸術家アトリエ「ラ・リュッシュ」

モンパルナスの集合アトリエ「ラ・リュッシュ(蜂の巣)」には、フランス国外から来た若く貧しい芸術家たちが集うようになり、キュビスムを吸収しながら、独自の前衛的な表現を確立していく。

その中には、ベラルーシから来たシャガールルーマニア出身のブランクーシ、イタリア人のモディリアーニらがいた。レジェも一時ここに暮らし、《縫い物をする女性>など最初のキュビスム絵画を描いている。

(左)ラ・リュッシュ、(右)マルク・シャガール、1968年

シャガールがパリに移住して描いた故郷の婚礼の光景が《婚礼》である。画家が生まれ育った東欧ユダヤ人の共同体「シュテットル」を象徴する人物像がモティーフとなり、三角形や帯状の面からなる空間構成はキュビスムの影響をうかがわせ、鮮やかな色彩にはドローネーとの関連が推察される。

シャガール《婚礼》1911-1912年

シャガールは 1914年に一時帰国し、戦争の勃発により 1923年までパリに戻れなくなるが、その間もキュビスムの言語を自作に取り入れ続けた。

シャガールキュビスムの風景》1919-1920年

モディリアーニは、一時「ラ・リュッシュ」に身を寄せ、同時代の「プリミティヴィスム」やキュビスムを吸収し、《女性の頭部》のようにシンメトリーの線と簡素なフォルムを特徴とする細長い人物像を生み出した。この頭部の表現は、彫刻から絵画にも受け継がれる。

モディリアーニ《女性の頭部》1912年

11. 東欧からきたパリの芸術家たち

1920年に2回目の「セクション・ドール」展が開催された時、中心になったのはグレーズやキーウ出身のアーキペンコに加え、モスクワ出身のレオポルド・シュルヴァージュだった。参加者には多くのロシアや東欧の芸術が名を連ねた。

展覧会ではシュルヴァージュ《カップのある静物》やエッティンゲンの作品が展示されている。

12. 立体未来主義

20世紀初頭のロシアでは、西ヨーロッパからもたらされた前衛的な造形表現と、ロシア正教会のイコンなど伝統的な民衆芸術などが結びつき、「ネオ・プリミティヴィスム」と呼ばれる運動が生まれた。ミハイル・ラリオーノフとナターリャ・ゴンチャローワはこの運動を推進した画家たちである。

ラリオーノフ《散歩:大通りのヴィーナス》1912-1913年

ラリオーノフの《散歩:大通りのヴィーナス》では、あえてヨーロッパの正統的な主題である「ヴィーナス」をタイトルに掲げながら、パリの大通りを遊歩する娼婦を描くことで、西欧美術の伝統を挑発している。荒々しいタッチは「ネオ・プリミティヴィスム」を特徴づける一方、文字の導入や幾何学的な表現はキュビスムの影響を、複数の脚による動きの表現はイタリアの未来派との関連が認められる。

13. キュビスム第一次世界大戦

1914年に勃発した第一次世界大戦では、フランス人芸術家の多くが前線に送られた一方、非交戦国スペイン出身のピカソやグリス、女性画家たちは銃後にとどまり、大戦中のキュビスムを担う。デュシャン=ヴィヨンは戦地で病を患い、1918年に早逝した。

グレーズ《戦争の歌》1915年

グレーズは従軍中のスケッチをもとに「戦争の歌」を指揮する作曲家フローラン・シュミットの姿を描いた。グレーズがシュミットに宛てた書簡によれば、人物像を取り囲む同心円状の曲線や色彩の選択は、シュミットの音楽から着想を得たと言う。この油彩画は 1915年に亡命したニューヨークで制作された。

フランスとドイツとの間の戦争により、キュビスムナショナリズム的な政治闘争の対象にもなった。キュビスムの芸術家たちの作品がドイツ人画商カーンヴァイラーによって扱われていたこともあり、キュビスムは戦前からドイツと結び付けられて、揶揄されたりもした。

大戦がはじまると、キュビスムはドイツによる文化侵略だと非難されるようになる。これは、キュビスムこそがフランスの伝統を受け継ぐフランス的な美術であると考えていたサロン・キュビストたちとの主張とは真っ向から対立するものであり、アポリネールらはキュビスムを擁護する立場から反論を行った。

14. キュビスム以降

大戦中に亡命したカーンヴァイラーに代わり、戦後はレオンス・ローザンベールがキュビスムの代表的画商になり、彼の画廊で 1919年にキュビストたちの個展が次々に開催された。キュビスムは再び最先端の芸術表現としての地位を回復するが、より平明で簡潔な構成へと変化もした。

一方、戦争が終結した間もなく、アメデ・オザンファンとシャルル=エドゥアール・ジャンヌレ(ル・コルビュジエの本名)は、キュビスムを乗り越え、機械文面の進歩に対応した新たな芸術運動として「ピュリスム(純粋主義)」を宣言した。

スイス生まれのル・コルビュジエ静物画は簡潔な形態と厳格な構図を特徴とする。長い年月をかけて洗練された純粋な形に達しており、機能美をまとったオブジェとみなされた。

ル・コルビュジエ静物》1922年

以上がこの展覧会の概要となる。

正直、重い腰を上げて行ってよかった。セザンヌが近代絵画の父と呼ばれる理由がよくわかったし、絵は写実的に描くものではなく、構成的に描くものであるというキュビスムが、その後の現代美術、抽象美術への橋渡しとなる運動であったことを改めて感じ取ることができた。よい学びの機会であった。

さらに理解を深めるために、美術入門書「もっと知りたい」シリーズの松井裕美『もっと知りたい キュビスム』の一読を勧めたい。展覧会の復習になると同時に、展覧会では出てこなかったキュビスムの芸術家たちの作品も数多く紹介されている。

永井隆則『もっと知りたい セザンヌ』では、「セザンヌが私の唯一のせんせいだった。…私は何年も彼の絵を研究した。…セザンヌはまるで皆の父親のような存在だった。私たちは彼に守られています」というピカソの言葉を紹介している。展覧会でも、またこの本でも述べられているように、セザンヌ幾何学的単純化デフォルマシオン(変形)は初期キュビスムの、パサージュ(推移)は分析的立体主義の手本となった。その後、ル・コルビュジエらによるピュリスムは、セザンヌ幾何学性を美学的根拠の一つと見なした。

印象派以降のフランス絵画史については、下記の展覧会メモがある:

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アークヒルズで美味しいランチ。そして泉屋博古館東京の「特別企画展 日本画の棲み家」へ

松岡美術館をあとにして、六本木に向かう。アークヒルズでランチ、そして泉屋博古館東京で開かれている展覧会「特別企画展 日本画の棲み家」を見る。

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今、旬なのは巨大な麻布台ヒルズなのかもしれないが、こじんまりしたアークヒルズもいいものである。サントリーホール前には、大きなクリスマスツリーが飾られている。

昼食は、BRASSERIE LE VIN(ブラッセリールヴァン)にて、ランチコースをいただく。ここは本当に美味しい。今回はジェノベーゼのパスタ、黒いデミグラスソースのハンバーグを堪能したが、僕の舌でも、一口食べただけで味の違いがわかる。

とどめはとちおとめのシャーベットとプリンのデザート。イチゴをたっぷり味わった後は、濃厚なキャラメルソースのプリン。大満足のランチであった。

夜に来たことはないが、サントリーホールの公演の前に立ち寄るのもいいかもしれない。

食後の腹ごなしも兼ねて、アークヒルズを散歩。ENOTECA を見つけたので、来週の友人の新居訪問用に、ピノノワールを求める。誕生月クーポンが使えてラッキー!

そしてアークヒルズからスペイン坂をぶらぶら上って、泉屋博古館東京へ。「特別企画展 日本画の棲み家」が開催されている。

Web サイトから展覧会の趣旨を引用する:

明治時代における西洋文化の到来は、絵画を鑑賞する場に地殻変動をもたらしました。特に西洋に倣った展覧会制度の導入は、床の間や座敷を「棲み家」とした日本絵画を展覧会場へと住み替えさせました。その結果、巨大で濃彩な作品が増えるなど、日本絵画は新しい「家」にふさわしい絵画表現へと大きくシフトしていきます。このような時代のなかで集められた泉屋の日本画は、むしろ邸宅を飾るために描かれたもので、来客を迎えるための屏風や床映えする掛軸など、展覧会を舞台とする「展覧会芸術」とは逆行する「柔和な」性質と「吉祥的」内容を備えています。

本展では、かつて住友の邸宅を飾った日本画とその取り合わせを再現的に展観し、床の間や座敷を飾る日本画の魅力を館蔵品から紹介します。また現代の作家が「床の間芸術」をテーマに描いた作品もあわせて展示し、いまの「床の間芸術」とは何かを考えます。

竹内栖鳳《禁城松翠》昭和 3年

京都・四条派の写生と西洋絵画の写実を融合した竹内栖鳳は、帝展における「展覧会芸術」化を憂い、「床の間芸術」の提唱と実践を行った。「禁城」とは戦前まで皇居を指した名称で、栖鳳が好んだ画題である。濠に藻刈舟が浮かぶ初夏の光景が軽やかに描かれている。

個人的には木島櫻谷(このしまおうこく)の作品が見られたのがよかった。泉屋博古館木島櫻谷の作品を数多く所蔵しており、行くたびにいくつかの作品を見るのが楽しみである。今回は《雪中梅花》と鷹を描いた《震威八荒図》が心に残った。

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美術館周辺、すなわち旧住友家麻布別邸の跡地の紅葉が美しい。